はその日、暮れはじめた空をぼんやりと眺めながら帰路についていた。




過去





今日の夕飯は何にしようか、なんてことを考えている。殺生丸が作った料理は美味しいが、毎日彼だけに炊事をさせるわけにはいかないと、交代で夜ご飯を作っているのだが、いかんせん料理経験が浅いため、レパートリーが少ない。なにかお手軽で美味しいものはないかと、ケータイを取り出したとき、ふと女性の声が聞こえて足を止めた。


耳を済ませてみるが、特に何も聞こえない。気のせいかと再び歩きだそうとしたとき、今度ははっきりと、女性の「やめろ」という声が聞こえた。


立ち止まって、声の出処を探る。もし何かのトラブルだったら、どう対処しよう…と、落ち着かない胸を抑えながら、すぐ横の路地、後ろ、前と見て、最後に道路を挟んだ向かい側の公園に目をやった。


そこに、男と女が一人ずつ立っているのが見えた。男の方は髪が長いので一見女にも見えるが、どちらも見知った顔だったので間違えることはない。


は車が来ていないことを確認すると、道路を横断して公園に足を踏み入れた。そして腕を捕まれ揉み合っている男女の間に身体を割り込んで、男の顔を睨みつける。


「なにしてんのよ奈落!!」


男はの担任、奈落。そして女の方は、かごめの姉、桔梗だった。


「桔梗さん!大丈夫ですか?!」
「お前は確かかごめの…」
「はい!同級生のです」


言いながら、桔梗を奈落から引き離すように後ろへ後ずさる。奈落ははじめ驚いた顔をしていたが、やがてくっくっと低い笑いをもらした。


…なぜここにいる…?」
「通学路なんだけど?いちゃ悪い?」
「いや…」


そう言って、にやりと笑う奈落。その不気味な顔に全身鳥肌がたち、ぶるりと軽く身震いした。


「今日のところはこのまま帰るが…桔梗、お前の立場、わかっているな?」
「…」


桔梗は奈落に何も言い返すことなく、その背中を見送った。一体何があったのかと聞いてみたくもなるが、聞いてはいけないことのような気もして、そうなるともなんと言っていいかわからず、奈落の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くす。


不意に後ろからぽんと肩を叩かれ振り返ると、桔梗が優しく微笑んでいた。


「ありがとう、助かった」
「いえ!私もあいつに目の敵にされてるので!」
「お前も…?」
「はい、なんかわからないけど、やたら絡んでくるというか、気持ち悪いというか…」
「…そうか」


桔梗はそう言うと、何かを考えるように黙り込んでしまった。声をかけようとも思ったが、邪魔をするのも気が引けたので、仕方なくそのまま桔梗の顔を見た。


かごめにそっくりな顔…だが、かごめより色は少し白めで、線が細そうな印象を受ける。黒く長い髪を一つに縛っていて、あまり化粧っ気がない。看護学校に通っていると聞いたことがあるが、そのためだろうか。色の白さに比べて目は切れ長ですっきりとして、黒目がはっきりと目立つ印象的な目をしている。がはじめて桔梗を見たとき、かごめをクールにしたらこんな感じかな、などと思ったことがあるが、そんな印象のある人物だった。


「…私の顔に、何かついてるか?」
「えっ?!」


桔梗に声をかけられて、自分がずっと桔梗を見つめていたことに気がついた。


「そ、そんなことないです!すごくキレイだと思って見ていました!すみません…!」
「ふふっ、そんなに慌てるな。怒っているわけじゃない」


そう言って笑う桔梗の顔があまりにきれいで、は自分の胸がきゅんとするのを感じた。…自分が男だったらきっと恋に落ちているかもしれない。そんな夢見がちなことを一瞬だけ考える。


「それより、今日のことは忘れた方がいい」
「え?」
「私と奈落の問題に、お前を巻き込むわけにはいかないからな。…それから、このことはかごめにも言わないでほしい」
「それは…かごめ、心配するんじゃ…」
「かごめに余計な心配をかけたくないんだ。あの子ももうすぐ受験だしな。だから…頼む」
「…わかりました」


桔梗の提案に、は渋々頷いた。本当は黙っているべきではないのかもしれないとも思うが、本人がそういうのなら言いふらすのもおかしなことかもしれないと思ったからだ。


が頷いたのをみて、桔梗はまた優しく微笑んだ。


「ありがとう」
「あ、いえ!」
「また、うちに遊びに来るといい。時間さえ合えば、ゆっくり話でもさせてほしい」
「はい、ありがとうございます!」
「ところで、家はどこだ?よかったら送っていくが…」
「あ、近いので大丈夫…「


丁重にお断りしようとしていたの声を、別の誰かが遮った。と桔梗二人で声の方を振り返ると、そこには銀の髪を揺らす…殺生丸の姿。


殺生丸がなぜここに?と思ったが、近くにハザードをたいた車が止まっているのが見えて、と同じく帰り途中に見かけてやってきたのだろうと思い至った。二人の元まで歩いてきた殺生丸は、を見下ろして、やんわりと目を細める。


、帰るぞ」
「あ、うん…」
「お前…殺生丸か…?」


桔梗の言葉に、は驚いて振り返る。…なぜ、桔梗が殺生丸のことを?そう思って殺生丸を見ると、殺生丸は少し冷めた目で桔梗を一瞥した。


「桔梗…か…」
「え?」


今度は桔梗を振り返る。殺生丸に向けられた視線はとても冷ややかで…の知らない二人の関係を感じて、少しだけ、胸がざわついた。


「えっと…二人は知り合い、なの…?」
「お前、こいつと付き合っているのか」


おそるおそる聞いたに、桔梗が強い語調で尋ねる。は普段なら肯定するのを照れるところだが、桔梗の迫力に気圧されて、普通に「そうです」と答えた。


「…今すぐ別れたほうがいい」
「え?」
「こいつは、他人のことをなんとも思っていないやつだ」


桔梗はそう言うと、と殺生丸に背を向ける。殺生丸はそんな桔梗から目を話すことはなかったが、特に何かを言い返すこともなかった。


、次会うときは、もっといい男を連れていてくれ」


そんな言葉を残して、桔梗は歩き去っていった。


その場に残されたと殺生丸に、重苦しい沈黙が降りてくる。の中には殺生丸に聞きたいことがたくさんあるのに、どれも自分から聞くのは怖かった。


やがて、殺生丸が一度ため息をつくと、に帰るぞと声をかけ歩き出した。はそんな殺生丸の背中に、戦慄きそうになるのを堪えて口を開いた。


「…待って」
「…なんだ」
「なんだはこっちの台詞。…今のは、どういうこと?」


意識して、強い言葉を使う。そうしないと、声がうわずって、震えだしてしまいそうだったからだ。


「どう、とは」
「二人は、どういう知り合いなの?」
「…小、中が一緒なだけだ」
「それなら…どうしてそんなに、嫌そうな顔をしてるの?」


の言葉に、殺生丸は押し黙った。…彼にしては珍しく、返す言葉に迷っているように感じられる。それはの言葉が真実であることを示していた。


「…一体、どういう関係なの…?」


何も話してくれない殺生丸に腹が立ってきてしまって、は声が震えだすのをこらえていた。さっきの桔梗の言葉、殺生丸を悪く言うような言葉…認めたくないのに否定しようとしない彼が憎たらしくて、ぎゅっと拳を握る。殺生丸はそんな人じゃないと否定したい気持ちと、自分の知らない殺生丸がいるのではないかと疑う気持ち、どちらもの中で膨れ上がって、ごちゃまぜになっていく。


…」


殺生丸がゆっくりと、に近づいていく。は顔を俯けたまま、近づいてくる殺生丸の影を見ていた。


「…泣くな」


殺生丸の手が伸びてきて、の頬を優しく包み込み、目尻をそっと拭った。は自分でも気が付かないうちに泣いていたらしい。殺生丸にそう言われると、今まで溜め込んでいたものがせきを切って溢れだすような気がした。


ぽろぽろと、次々涙を流す。殺生丸はを抱き寄せ、頭を優しく撫でた。


「ひとまず、家に帰るぞ」
「っ、で、も…」
「話は…帰ってからだ」


の頭を抱えこむように抱き寄せると、ふわりとシャンプーの匂いがくすぐる。…この匂いを、離したくないと、殺生丸は思う。


これまでに言っていなかったこと、言えなかったことを、言うときが来たのだと、そう自覚する。


ゆるりとした動作でが頷いたのがわかって、殺生丸はさらに強くを抱きしめる。の匂いが一層はっきりとして、このまま二人の境界がなくなって、一つになってしまえばいい、などと、柄でもないことを考えていた。



◆ ◇



家にたどり着いた二人は、相談して、まずはご飯を食べることにした。お腹が空いた状態ではちゃんと話が聞けないから、とからの提案だった。おそらく冷静になるために時間を置いたのだろうと、殺生丸は思った。


明日が休日なこともあり、時間には余裕がある。二人で並んでキッチンに立ち、オムライスを作ることにした。


オムライスといえば最初にリクエストした料理だな、なんてことを思いだす。


そのときは、確かに少し言葉がきつい印象はあったが、ひどい人だと思ったことはなかったし、殺生丸をより深く知ってからは、ぶっきらぼうながらも優しい人なのだと思った。だからこそ好きになり、恋人にもなれたのだ。


何があっても、「今の」殺生丸を嫌いになるわけがない。


たとえば殺生丸の過去にとんでもない事実があったとしても、それが今の殺生丸を作るために必要なことだったのなら、受け止めてあげたい。そこまで思って、は玉ねぎを切っている殺生丸の横顔を見やった。


相変わらず美しい顔で、何を考えているのかは正直わからないが、それが穏やかな表情であることだけは、にはわかる。


殺生丸とあまり親しくないものには、もしかしたらわからないかもしれない。だが、にはわかる。それは、彼と多くの時間を過ごし、多くの表情を見て、多くの感情を共有して…愛したからこそ、わかるのかもしれないと、思う。


は水で洗ったレタスをちぎりながら、少しだけ笑った。小さな自信でも、殺生丸がくれたものだから、きっと大丈夫。そんなことを思っていた。



◆ ◇



食後のコーヒーを落として二人でリビングのソファに座ると、なんとなく黙りこくってしまう。気になってはいるけれど、自分から催促するのもおかしいと、殺生丸を見ないようにして言葉を待つ


殺生丸はひとくちコーヒーを含むと、やがて静かにマグカップを置いた。


「…大した面白い話でもないぞ」
「ん…大丈夫」


歯切れの悪い殺生丸が珍しく、きっと彼も言いづらいのだろうと、は思った。湯気の立つコーヒーを一口すすった後、殺生丸のマグカップの隣に自分のマグカップを置いた。


「…桔梗の親は知っているか」
「え…と、かごめの、ご両親?」
「そうだ」
「…そういえば、お母さんは会ったことあるけど、お父さんはないなぁ」
「その父親の会社が、うちとライバル関係にある」
「えっ…」
「桔梗は奈落の許嫁だ」
「ええ!?」
「桔梗は私が荒れていたときに、私が何をしてきたのか知っている。…奈落もだ」
「ちょ、ちょっと待って」


次々と出てくる新しい情報に、は頭が混乱して目が回りそうだった。殺生丸はそんなの顔を横目で見やり、マグカップを手に取って、コーヒーをすすった。


「ええっと、桔梗さんのおうちと殺生丸のおうちはライバルで、昔から家族間でいがみ合いが会ったってこと?」
「正確に言えば会社間だな。一時和解の意味で私と桔梗の縁談が持ち上がったこともあったが、それも一瞬で消えたな」
「あええ、なんかもう、お金持ちなんなの…意味わかんない…」
「お前の家も金持ちの部類だろう」
「私は家族からつまはじきだから、恩恵に預かったことなくて…」


困ったような顔で笑う。殺生丸はそんなの頭をぽんと叩いて、またマグカップをテーブルの上に置いた。


「で、桔梗さんが奈落の許嫁ってことは…殺生丸との縁談が反故になったあと、そういう話が出たってこと?というか奈落のところもそんな大きな会社なの?」
「奴のところは銀行だ。あまりいい噂は聞かぬがな」
「銀行…それはなんかすごそうって感じがする」
「緊張感のない奴だな」


そういって殺生丸がふっと笑うので、は恥ずかしさに顔を俯けた。確かに今の発言は世間知らず過ぎたと後悔する。だが、そこで終わっていては一番肝心なところを聞くことが出来ない。はコーヒーを一口すすって恥ずかしさをごまかした。


「で…荒れてた、っていうのは?」


の言葉に、殺生丸がわずかに眉を寄せた。どうやら彼が言いよどんでいた話はこれだろうと、彼の反応でわかる。コーヒーカップに伸ばしかけた手が途中でぴたりと止まっている。


その手がゆっくりとカップから離れていくのを、はぼんやりと見つめた。


「…平たく言えば、不良、というやつなのだろうな。当時から父上は家にいなかった。だから学校にもほとんど行かず、毎日人を殴っていた」
「喧嘩してたってこと?」
「この髪を見て生意気だと絡んでくる奴を片っ端から殴っていた」
「うわぁ…」


いちゃもんをつけられた端から殴っていく殺生丸がすぐに想像できて、は思わず声を漏らした。殴られた人たちが気の毒だと思う。


「他人に関心もなかった。会社にも興味はなかった。むしろ縛られていることにうんざりしていた。そして、私をうらやましいなどと抜かす犬夜叉が憎かった」
「うらやましい?」
「父上の会社を継げること、父上と共に住んでいること…父上に認められていることが、だろうな」
「そういえばかごめが、殺生丸と犬夜叉って、お母さんが違うって…」
「ああ、腹違いだ」


そっかぁ、といって、は小さく息を吐く。次々と話が進んで圧倒されてはいるが、正直殺生丸が隠していたことがもっと悪いことであるかもという覚悟をしていたので、少し拍子抜けしてしまった。


「でも、そんなに荒れた状態だったのに、今は普通なんだね」
「…普通、か…そう見えるか」
「うん。もともとクールだからかもしれないけど、とても落ち着いてると思う」
「なら、少しは『奴』のおかげかもしれんな」


そう言って、殺生丸は珍しく懐かしむような顔をした。その『奴』のことを思い出しているのだろう、は少し複雑な気持ちになりながらも、どんな人物なのか、興味が湧いた。


「ねえ、その人は、どんな人なの?」
「…そうだな…」


からの問いかけに、殺生丸は言葉を選びながら、話し始めた。









あとがき。
長くなるのでここでいったん切ります。
次回は過去編…?のようなお話。









2019.12.21 saturday From aki mikami.