殺生丸と別れてから、は森の中をとぼとぼと歩いていた。目が見えない彼女にとっては歩き易い場所ではないが、それは長年の勘で何とかする。踏みしめた瞬間の枯葉の音や、何処からか緩く吹いてくる風さえも、その手がかりとなった。

今、の頭を支配するのは彼の事。ほんの一瞬だけ触れた唇に、流れる風によって音をたてる、二人分の長い髪。それさえもあの状況を特別なものへと変えた。…全てが、嘘のようだと思った。出会ったばかりの男と、交わした口付け。ポツリポツリと、少ないがそれでも心奪われるような会話。

はトンとすぐ横の木に手を付いて、その場に座りこんだ。
思い出せば思い出すほど、恥ずかしくて仕方なかったから。自分の頬が赤く染まっていくのが、目が見えなくても分かった。

だが、何時までもその場に座りこんでいても仕方ない。恥ずかしさを紛わせるためにはそんな事を思った後、手と足にグッと力を入れて立ち上がろうとした。…だが。

背中にぞわりとした嫌な感覚。冷や汗が垂れそうな、嫌な感じが全身を襲った。まるで圧迫されるような、妖気。殺生丸のようにしなやかなそれとは違って、体にまとわり付いてくるような、気持ち悪い感じがした。


「っ…!」


逃げなければいけない。そんな風に思って、ダッと走り出す。だが、妖気は彼女の後ろを付いてくるようだった。出来るだけ全力で走る。足元も前も見えないけれど、それは全て第六感で感じ取った。ある程度走った風が前から後ろへと勢い良く吹きぬける。その瞬間、自分の周りからものがなくなったのに気が付いた。ものだけじゃない…足場まで。


「っきゃっ…!」


まっさかさまに、下まで落ちる。その瞬間は己の死を覚悟したが、…奇跡というものだろうか、ドスッという音と共に体に少しの痛みが走って、カラカラと石が落ちる音が聞こえた。


は、崖の下に少しだけある足場にかろうじて落ちたのだ。


目が見えないということは、にはその場の状況が飲み込めない。だが、風の吹き抜ける音や、温度の違い、それからしんとした周りの音などから、自分が普通の状況にはいない事が感じ取れた。
そろそろと手を伸ばす。だが、つかめそうな物は何もない。今度は地面に手を当てて、少しずつ外側へと伸ばしていくが、途中で地面が途切れて空気を触る形になってしまう。…という事は、下手に動いてはいけないということ。


「…どうしよう…動けない」


ぺったりと尻を地面につけた侭、動けなくなってしまう。ここまで来たらもう、自分が崖から落ちて僅かな出っ張りに座って居ることは、イヤでも判ってしまうだろう。
が助かるには、誰かに上から引き上げて貰うか、死を覚悟で崖を這い上がるかしかない。…だが、には助けに来てくれる知り合いも居ないし、目が見えないのでは這い上がるのも不可能に近いだろう。
あとは、死を覚悟するしかない。そう思って、は目を閉じる。元々目が見えなかった時点で、自分は何時死んでも可笑しくないと思っていたのだ。
遅かれ早かれ生き物は皆死ぬ。それが何時来るのかの違いだけだと、は軽く割り切っていた。


光の全くない、暗闇の世界が広がる。元々目を開けても白い世界しか見えないが、それでもやはり暗闇と言うのは少し恐ろしいものがあるだろう。
…そんなものも受け入れようとしていた、そのとき。


「… 」


微かな声が、の耳に届く。それはあまりに小さすぎて聞き逃しそうになるほどだった。
目を開けて、誰?と呼びかけてみる。だが、返事はない。もう一度呼びかけるが、やはり返事はなかった。


今更死が怖かったのだろうか、と思ってみる。恐怖が幻聴を引き起こしたのだろうかと。だが、あれが幻聴だったとは、には思えない。
もう一度、今度は上空に向かって大きく叫んだ。


「…誰っ!?」





「……っ」


今度ははっきりと聞こえた。それはついこの間も聞いた声で、は思わず口元を押さえる。低くて落ち着いた、遠くから響いてくるようなその声。それは紛れもない…殺生丸の声。


「殺生丸様っ!」


今すぐ立ち上がりたい衝動にかられる。だがその瞬間足に激痛が走りそれも侭ならなかった。


すぐ隣で、スタッと何かが降り立つ音がする。それからすぐに体が持ち上げられて、上から下に掛けて風の抵抗があって、なくなったら今度は足に地面の感覚があった。


…」


囁くような声でそう呼ばれる。が彼の声だと安心したのも束の間…暖かい物に包まれる。あの時、口付けされたときと同じ匂いが、鼻を掠めた。


「あのっ…殺生丸様っ…?」
「…」


呼びかけるが反応はない。それどころか更に強く抱き締められて、はすっかり何が何だか判らなくなっていた。
彼の息遣いまでもが、聞こえる距離。心臓が少しだけ高鳴っているのは自分だけだろうかと、は思う。さらりと長い髪が頬に当たっていて、くすぐったさを覚えた。


どれくらい立っただろう、ようやくゆっくりとを離す殺生丸。だがは自由になった体を動かすこともなく、何処に居るかも分からない彼を、見つめていた。


「殺生丸様…」
「…共に…来い」
「え?」
「……私と共に、来い」
「…」
「来い」


強い声で、そう言われる。瞬間的にその言葉を理解することが出来ずに立ち尽くしていると、今度は耳元でもう一度呟かれた。


「…共に来い」
「っ…!」
「…どうする」
「…」


どうする、と問われるが、には考える意味もなく、ひとつの選択をするしかないだろう。
もうひとつを選べば、確実に長くは生きられない。長く生きたければ、…答えはひとつ。


「…一緒に…行きます。行かせてください」
「…」
「私も、いっしょに連れてってっ」


しっかりと彼の着物を掴んで、そう告げる。するとまるでそれに答えるかのように、強くしっかりと抱き締められた。