夜。


はゆっくりと立ち上がると、隣にいるりんや邪見を起こさないように静かにその場を後にした。向かう先は、今日りんと一緒に行った水辺。


が昼に水浴びをすることはほとんどない。それは、確かに他人に見つかってもわからないからと言う理由もあるが、本当はそうではない…夜の方が静かで、近づいてきた人間や妖怪の気配が良くわかるからだ。背中をとられにくい、つまり防御できると言う事だ。


「…どこへ行く」


そう低く声が響いて、の肩が揺れた。


「、殺生丸様…」
「水浴びに行くのか」
「…は、い」
「……一人でいって、迷わないのか」
「…迷わないと思います」
「曖昧な答えだな」
「…」


正直、ちゃんと帰って来れる自信がなかった。いや、普通で行けばもちろん、ちゃんと帰って来れるはずなのだが、もしが水浴びをしている間に風向きが変わってしまったら、もしかしたら帰ってこれないかもしれない。


「…ついていく」
「え…!」
「見るつもりはないぞ」
「あ、いや…その、そういうつもりで…」
「お前が戻ってこれないと、困るだろう」


殺生丸の言葉はありがたい。ありがたいが、にして見れば複雑だ。
彼のことを慕っているだけに、水浴びを見られるのは…


「は、恥ずかしい…です」
「見るつもりはないと、いっただろう。私が後ろを向いて見ればいい話だ。…それとも、入らぬ世話か」
「っ、そんなことはないですけど…」
「ならば、行くぞ」


そう言った殺生丸は、右手でのことを持ちあげた。はと言うと急な浮遊感に襲われて小さく声をあげたが、もちろん殺生丸はそれも構わずに飛び上がり、そのまま木伝いに水辺まで下りてきて、ゆっくりとかかえていたを降ろした。


「…ついたぞ」
「え…?」
「早くしろ」
「は、はい…その、後ろ…」
「わかっている」


そう言うと、殺生丸はに背を向け、腕を組んでその場に座った。だが、はそれを確認することが出来ないため、戸惑いながらゆっくりと水辺に足を進める。…そこで服に手を掛けて、見えるはずもないのに彼を振り返ってしまった。…彼の気配はずっとそこにあって、動かない。は意を決して服を脱ぎ、ゆっくりと水に浸かった。


相変らず、夜の水は体が凍るほどに冷たい。だが、今日は彼が後ろに居るという事実で、すっかり火照ってしまっている。…恥ずかしい。だが、それと同時に、自分を気遣ってくれていると言ううれしさも感じていた。


髪の毛をゆっくりと水につけて、丁寧に洗い始める。する、と手櫛を通して、緩やかに流れる水にまかせて、ふわふわと浮き上がった感触をすこし楽しんだ。


「…
「、は、はいいっ!」


突然掛けられた声に、はとびあがった。水がぱしゃりと跳ねて、彼女の顔に雫を落とす。


「…そこを、動くな」
「え…?」
「……気づかぬか?」


そう殺生丸に言われて、そっとあたりに注意を払う。…わずかだが、妖気を感じる。


「あの…妖気…」


がそういいかけた時、殺生丸が突然そこから飛び上がって、後ろから前の方へと移動していくのが判った。反射的には肩まで水に浸かり、彼の気配に集中する。ざしゅ、と音が聞こえて、きぃ、と金切り声が聞こえて、それから再び殺生丸が、軽やかに前から後ろへ戻って行った。


「…あの…殺生丸様…?」


恐る恐る、呼びかけてみる。刀を鞘に納める音が聞こえて、ほっとして少しだけ、水から上がって見る。


「……小妖怪だ」
「そう、…ですか」


ほっと胸を撫で下ろす。自分の心臓がいつのまにか、大きく脈打っていたのがわかった。


「…、
「はい」
「その、傷は」


突然の殺生丸の言葉に、は驚いて目を見開いた。


「え…?」
「その、背中の傷だ」


彼の言葉を理解するのに、数秒掛かった。その、背中の傷?つまり彼は…の背中を、見ている。


「きゃ、
「背中しか見えていない。声をあげるな。…それよりその傷はなんだ」
「き…傷…?」
「…自分の背中にあるのに、分からぬのか…」


さく、と土を踏む音が聞こえる。その音には凍りついて、動けなくなる。それでもお構いなしに歩いてきた殺生丸が、そっと手を伸ばした。


「…!!」


つぅ、と背中に何かが触れる。それは、背中を右から左へ、ゆっくりなぞっていく。…それが殺生丸の指だと判るまでには数秒かかった。


「…せ、殺生丸様…!」
「呪いだ。…それも、相当強い」
「え…?」
「それもこれは、人間によって施されたものだ。…心当たりはないのか」
「の、ろい…?」
「…黒い、紋様。入墨のようだ」


指がゆっくりとはなれ、気が抜けたのも束の間。


…湿った生暖かいものが、同じ場所に触れた。


「…せ、殺生丸様、なにをっ」
「……蛾の鱗粉だ。黒巫女が呪術に使う。…間違いない、お前は昔に、強い呪いをかけられている」
「な、なにをいっているのか…」
「…お前の目が見えないのは、呪いのせいだ」
「っ…!!」


ぱしゃ、と音がしたと思ったら、背中を強く擦る感覚。その瞬間、特別強い力でもないのに、ものすごい激痛を感じた。


「い、たい…っ!」
「やはり、取れぬか」


彼の手が離れると、すっと痛みが納まった。小さく肩で息をして、痛みをこらえる。


「…殺生丸様、あの」
「とにかく水から上がれ。話が出来ぬ」


そう言うと、殺生丸は身を翻して再び反対を向き、早くしろ、とに声を掛けた。は、小さく震える体を抱えてゆっくりと水から上がり、足元の着物を拾い上げた。


ちりちりとした甘い痛みが、離れない。