08.「靴擦れ」










*『』は英語です。



がヒールを履く機会はあまりない。上司に面会するとき、接待のとき、潜入捜査のとき…年に両手で足りるほどしかヒール靴をはかない。普段はヒールのないパンプスか、走りやすいスニーカーを履いている。それは女としておしゃれがどうでもいいというわけではなく、ヒールなんか履いていたら仕事にならないからだ。だが…


『やっぱり女としてそれくらいの身だしなみは整えなくちゃね』
『…ずいぶんなこと言ってくれるのね、パトリシア』


明智がロスにいたときのワーキングパートナー、パトリシア・オブライエン。…と紹介はされたが、実際はどうだろうか。当然全員が明智とパトリシアに疑いの目を向けている。そして、疑われているパトリシアは、どうやら明智の近くにいる女、が気に食わないらしい。何かにつけて食って掛かるが、今日は身だしなみの話だ。


『仕事の邪魔なんですけど…帰ってくれないかしら?』
『まぁ!ひどいこと言うわね!聞いた、ケンゴ?』
『…彼女の言い方はともかくとして、私たちは今仕事中だ。悪いけど、後にしてくれないか?』
『ケンゴがそういうんなら…仕方ないわね』


明智から離れたパトリシアを見て、は小さくため息をついた。自分の机の下をあさって、奥の方にしまってあるヒールを見つけると、パトリシアに見せつけるように目の前において、今はいているパンプスと履き替える。


『大体ね、ヒールくらい持ってるわよ。何かあったときのために』


そう言ってパンプスを机の脚元に突っ込むと、机の上の財布を乱暴に掴んで立ち上がった。


『それじゃ、私お昼食べますんで』


言い残して、その部屋を後にする。


『何あの人。怖いわねぇ』
「…」




二人でが出ていった方を見据える。その様子を見ていた剣持たちは、の機嫌の悪さが自分たちに降りかかってこないことを祈るだけだった。









◇ ◆









みなが家路につく頃、明智とパトリシア二人を残しても捜査一課をあとにした。苛々した気分のまま、受付の友達と無駄話をして、彼女が帰る時間にあわせて自分も警視庁を出る。


は混乱していた。彼等を見ていると相当苛つく。特にパトリシアを見ているとかなり苛つく。…だが、なぜいらつくのかわからないし、その怒りをどこに向けていいのかもわからない。本人たちに向ければいいのかもしれないが、パトリシアはともかくとして明智はに対して何もしていないし、何も言っていない。


だからこそ、むかつくのかもしれない。そう考えていると、甘えたような女の声が聞こえて、思わず茂みに身をかくした。


『ねぇケンゴ、今夜は泊めてくれるでしょう?』


数メートル先には…腕を組んで歩く明智とパトリシアの姿。
遠くて明智の返事は聞こえなかったが、そのあとのパトリシアの反応を見ていると、彼はOKしたらしかった。


の頭が、さっと白くなった。


「っ!!」


隠れていたことも忘れて走り出す。当然、明智たちもに気がついて振り返ると、驚いた顔を見合わせた。ことの次第を読み取った明智は、パトリシアの腕を振り解くと、全速力で走るの背中を追いかけた。









◇ ◆









しばらく走ると、の足は靴擦れだらけになってしまった。それでも、は走るのをやめなかった。


二人のことが、頭から離れない。これから二人は、明智の家で優雅にワインでも飲みながら、愛を語り合うんだろうか…そんなことを考えると、胸がかきむしられるように苦しくなった。靴擦れもそれを後押しするように、痛みがどんどん広がっていく。


これも全部、パトリシアのせいだ。


は自分の胸を押さえつけながらゆっくりと減速した。やがて足をとめ立ち止まると、力が抜けてその場に座りこむ。どうして、こんなことを思うんだろう。どうしてだかはわからないけど、今苦しいのは確かだ。…だけど、どうして苦しいのか。どうしていいのかわからず、頭はただ混乱していくばかりだった。


「パトリシアも…明智さんも…ばか…」


呟けば呟くほど、みじめになっていく自分がいた。だが、呟かずにはいられなかった。誰にも聞いてもらえなくても、一人ごとでも、口に出さずにはいられなかった。


「誰が馬鹿です?」


そんな声に、は目を見開き、恐る恐る振りかえった。…そこには、珍しく息を切らした明智が立っていた。


「何してるんですか、こんな道を一人で!」
「っ…貴方に関係ないでしょう…!」
「貴方はそんなに心配をかけたいんですか?」
「そんなことありません。…貴方にはもっと心配しなくちゃいけない人がいるじゃないですか」
「?」
「早く行ってください、パトリシアの所に。今日、泊めてあげるんでしょう?」


自分でそういったくせに、は涙が出そうになった。それを必死で堪え、明智に背を向ける。肩が震えているのがわかって、恥ずかしくなった。


「…泊めませんよ。"泊めることは出来ないが、かわりに食事をしよう"とは言いましたが」
「え…?」
「泊められませんよ、貴方がいるのに」
「…っ」
「あの家に泊めていい女性は、貴方だけですから」


そう言って、明智はの背中を軽く引き寄せる。体勢が崩れて明智にもたれかかった瞬間、我慢していた靴擦れが痛み始めた。


「っ…」
「慣れないヒールなんて履くから、靴擦れしたんでしょう」
「だってっ…」
「しかたないですね」


呆れたように、でも楽しそうに笑った明智は、の額に軽く口付けると、名残惜しそうに体を離し、その場に背を向けてしゃがんだ。


「っ…えっと…」
「早くしてください」
「だって…」
「その足で歩けるんですか?」
「ぅ……で、でも」
「お姫さまだっこの方がいいんなら、そうしますよ」
「っ、おんぶでいいです!!」


明智の言葉にまんまとのせられて、は恐る恐る、周りを気にしながらも彼におぶさった。彼女が首に腕を回したのを確認すると、ゆっくりと立ち上がって歩き出す。



「明智さんて、以外と力あるんですね…」
「スポーツを趣味としている身としては当然ですね」
「(イヤミだ…)」
「ところで…


突然明智の口調が変わって、は思わず飛び跳ねた。それに、名前を呼ばれたことにも。


「な、なん…ですか?」
「これから言うことを、黙って聞いていて下さい」


いつもとちがう。そう感じたは、はい、と頷いた。広い背中が、少し強張っている気がする。…もしかしたら、緊張しているのかもしれない。


「私は…今までたくさんの女性と出会いました」
「…」
「その中には、私好意を抱いてくれる女性もいましたし、特別な関係になった女性も居ます。はっきり言って、貴方とはまったく違うタイプの女性ばかりです」


ゆっくりと天を仰ぐ。銀色の髪が夜風に揺れて、の頬をくすぐった。


「それなのに…これまで出会った女性の誰よりも、貴方が…大切なんです」
「…」
「愛してる…。貴方がどう思おうと、私は貴方を…」
「え…っと…」


明智にしがみつくの手に、ぐっと力が入った。…明智の言葉をゆっくりと理解する。


「わ…私は…最初貴方みたいな人が苦手で…でも一緒にいるうちに、いい人だなって…思えるようになって。…確かに私にとって、貴方は特別な人です。でも…」


そこで、の言葉が途切れた。明智が歩みを止めると、彼女の体が震えているのがわかる。


「好き…かどうかは…正直、分からない…」
「…」
「私は今まであまり恋をしたことがなくて…好きって気持ちがまだよく分からないんです。ただ確実に言えるのは、あなたが私にとって特別なんだってこと…」
「特別…というのは、どんなふうに?」
「一緒にいてもいいと思わせてくれる人。この人がいなかったら嫌だなぁって、思わせる人…」


しんとした、沈黙が訪れた。も、明智も、何も言わない。ただ歩くときの衣ずれだけが、二人の体から響くかのようにやけにうるさかった。


「だから… だからね…」
「…」

「…少しだけ…考える時間を下さい…」


の言葉は、明智を少しだけ動揺させた。…彼女も自分を思ってくれているという、それなりの自信があっての告白だったから。だが、猶予を与えてほしいと言っている彼女を、拒否するわけにはいかない。


「わかりました。貴方の答えが出るまで、待ちますよ」
「っ…ごめんなさい…」
「気にしないで。待つのも嫌いじゃない」


そう言った明智は少しだけ微笑んでいた。


もう少しで明智の車が見えてくる。それはこれまでにもう何度も乗った、コバルトブルーのBMW。


優しすぎる彼が、もう少し怒ってくれればいい。そんな風に思ってしまうのは、自分の罪悪感から逃れたいためなんだと、はわかっていながら、そう願わずにいられなかった。




広い背中が語るもの










2005.08.12 friday From aki mikami.
2007.09.13 thursday 修正。
2011.06.20 monday ちょっと修正。