01 雨音と出会い






scene 1





秋口だというのに降り続いている雨が、コバルトブルーのBMWを濡らしている。パタパタと跳ねる水がフロントガラスを濡らすと、少しだけ鈍い音を立ててワイパーがそれをふき取った。


こういう雨の日には仕事は早々に切り上げて、さっさと自宅のウォーターフロントの高層マンションでブルーマウンテンの香りを楽しみながら優雅に読書でもしたいところだが、車は渋滞で進みが悪く、まだ面倒くさい仕事がいくつか残っているので、それも片付けなければならなかった。


…警視庁捜査一課警視、明智健悟。


最近めっきり趣味を楽しむ暇のない彼は、珍しくストレスを感じていた。というのも、むさ苦しい…もとい、優秀な部下の剣持が、耳元でがみがみ報告を述べてくれたり、部下が調べてきたこまごました書類にいちいち目を通さなければならなかったり、明智としては全く興味のないことをやらされていたりするのだから、いらいらするのも無理はない。


明智はまったく車が進んでいかないのをいいことに、目線を前方から左方にある、雨の降り続く公園へと向けた。さすがに今日は子供達もおらず、随分と静かだ。大きく聳え立った一本の木の下だけ土が白くて、そのほかは水に濡れたせいで総ての色が濃く、映し出されている。


そんな中で、一つの遊具が明智の目に留まる。半円型で、大小さまざまな穴が開いている、中に入って遊ぶタイプの遊具だ。特別珍しいものではない。


明智の目を釘付けにしたのは、遊具自体ではない。…その中に、人がいたのだ。しかも、おそらくは大人の女性。


隠れているものは見つけてやりたくなる、というのは警察の習性のようなものだろうか。明智は隣の車線へ方向転換して(反対車線は大分すいている)公園の脇道に車を止めた。助手席に放っておいた傘を掴んで、車から降りる。ちょうど水溜りの前に止まってしまったようだが、持ち前の長い足でそれを器用に交わして公園内に踏み込むと、雨の日独特の匂いが鼻を掠めた。…決して、不快な匂いではない。


大分雨は降っているが、どうやら地盤がしっかりしているようでぬかるんだりはしていない。舗装されていないため革靴では少々歩きづらいが、それは我慢するしかない。


目的の遊具までつくと、明智は先ほど窓から見えた穴から、遠慮がちに中を覗き込む。…そこにいたのは、ショートカットで、白いブラウスと黒いロングスカートを着た女性だった。ひざを抱えているため、顔は見えない。


「…あの、ここでなにをなさっているんですか?」


そう明智が呼びかけると、女性はゆっくりと顔を上げる。…うつろな目に、少しだけ涙を浮かべていた。


「誰…あなた」
「通りすがりのものです」
「…私に用が無いんなら…どっか行ってください」


そういって、女性は再び頭を抱えてしまう。明智は背広のポケットからハンカチを取り出すと、彼女に差し出した。


「余計なお世話かもしれませんが…こんな所にいたら風邪を引きますよ」
「…」
「それに、あなたにはきっと、笑顔が似合う」
「…変な人」


そういって、女性は明智からハンカチを受け取る。その口元は少しだけ笑みを浮かべていて、明智はよく言われます、と、少しおちゃらけて返した。


そのとき、携帯電話の呼び出し音が聞こえて、明智は自分の内ポケットを探る。案の定自分の携帯が震えていて、剣持勇の名前が表示されていた。


「部下に呼び出されてしまったので、失礼します。そのハンカチは差し上げますのでどうぞ使ってください」


そう言って、明智は立ち上がる。女性はそれを何とも付かない目で見つめていた。


「また、お会いできるといいですね」


そう言って、雨の中を去って行く明智。そのときはまだ、二人とも。…これから何度も会うことになるなんて、思わなかった。









scene 2





もう5年も前に起きた事件。閑静な住宅街に住むごく普通の婦人が何者かに殺害された事件。だが、…その殺され方と言うのが普通ではなかった。首を絞めて殺害した後に、胸に十字の傷が刻まれていたのだ。何か宗教的なものを連想させるが、その事件がたった一度、そのときだけだったので、当時は只の見立て殺人かと言うことで簡単に片付けられてしまった。遺族にはそれなりの反発を受けたが、それ以上捜査が進展することはなく、犯人も捕まっていない。


そんな事件の捜査資料を広げて、明智は小さく溜息をつく。5年も前とはいえ、余りにもいいかげんなその捜査資料に、呆れかえっているのだ。


当時明智はまだロスへ研修に行っていたので、直接この事件には関わっていない。…明智がこの資料を見ている理由は、現在東京23区内で起きている殺人事件が、この事件に良く似ているからだ。


「明智警視、いらっしゃいました」


剣持にそう声を掛けられ、明智は軽く返事をして立ち上がる。今日は5年前の事件で殺された婦人の子供が、事情聴取のためにやって来ることになっていて、剣持はその人物の来訪を知らせに来たのだ。


丁度ドアが開いて、その場にいた人間が少しだけ背筋を伸ばす。…顔を見せた女性に、明智は息を止めた。


「…貴方は」
「警視…お知り合いでしたか?」


…そこにいたのは、雨の日にあった、あの女性だった。


「お久しぶりです。…刑事さんだったんですね」
「…えぇ」
「私、といいます。よろしく」


そう言って、まるであの日のことは何事もないかのように笑う彼女は、とても彼の記憶の中の彼女と同一人物だとは思えなかった。…明るいせいもあるだろうか?笑顔は華やかで、美しい。あの日に見た儚げな雰囲気は微塵も感じられなかった。


「明智健悟です。よろしく」


明智はふわりと笑う彼女に、そう返すしか出来なかった。









2005.08.28 sunday From aki mikami.
2013.09.05 thursday 加筆、修正。