人違いなんかじゃない
「あ…雨…」
ぽつぽつと音が聞こえてきて外を見やれば、案の定、雨だ。雨が降るのは明日からだって、天気予報で言ってたくせに。やっぱり人間の予想なんてあてにするものじゃない。自分で考えててなんだけど、これじゃあまるで人間不信みたいだ。
「明智くん、雨降ってきたよ」
「え?」
3年前の殺人事件の資料とじっとにらめっこしたままだった彼にそう話しかけてみたら、立ち上がって私の肩越しに外を眺めた。
「本当だ。くん、今日は車かな?」
「あ、違うよ。もしかしたら雨降るかもなって思ったら、車に乗ってくる気なくなっちゃって」
「雨の日は車に乗らない主義なんだね」
「そうね。あんまり運転に自信ないし…それに、私傘さして歩くのが結構好きだったりするから」
「そうか。なら、今日は私が家まで送ろうか?」
「えっ!?」
あの日以来すっかりフレンドリーになった私たちだけど、まだふたりきりには慣れない。姉のことを隠さなきゃいけないのは変わらない事実だし、そのために、これ以上彼を好きになってはいけないって気持ちもある。
「あぁ…別に大丈夫。何か悪いし…」
「そういうことは気にしなくていいよ。私は君と違って、自分の運転には自信があるし…それに、女性を一人で歩かせるのは私のポリシーに反するからね」
「はぁ…」
有無を言わせぬ笑顔というのを、私はこのときはじめて見た気がした。彼のように自分の表情を自由に操れる人間が、正直うらやましいと思う。きっとこの人は、どんなにイヤなことがあっても絶対顔には出ないし、今までこの笑顔で色んな苦境を乗り越えてきたんだろう。この人には絶対逆らえないと思う。
「じゃあ…お願いします」
私が言うと、明智くんはくすっと笑みを浮かべた。その笑い方はさっきとは違う、すこし優しい感じだった。
…彼のそういう表情を見ると、ついあの日を思い出してしまう。あったばかりで少ししか話さなかったけれど、10年分ぐらいの時を過ごした気持ちになった、あの時。それは、そのひと時で彼の優しさが伝わってきたからだ。
「…私、ゴハン買ってくるね」
よけいな考えを振り払うために、私は彼の方を見ないでそういった。当然表情はわからなかったけれど、…もしかしたら、驚いていたかもしれない。
「今から行くの?」
「まだ食べてなの、お昼ゴハン」
「どこかに食べに行こうか?」
「キャリア組のあなたと違って、私にはお金がないんですよー。だから普通にコンビニ弁当ですませるよ。明智くんにはコンビニって似合わないしね」
「…通り魔事件の事もあるし…物騒だから気をつけて」
「私だって一応刑事なんだから、大丈夫よ」
机の上に置いてあった財布を持って、入り口の傘立てにさしてあった傘を持って、その場を後にした。…買い物を済ませて帰ってきたら、誰かが帰ってきているか、明智くんがいなくなっていればいいのに。今彼と一緒にいるのは、少しつらい。
***
にゃあ。
とても小さな泣き声だったから、下手したら聞き逃していたかもしれない。
コンビニの帰り、警視庁まで戻る途中にある電話ボックスの脇で、ふるえている猫を見つけた。その猫はどうやら生まれて間もないようで、…おそらく野良猫が最近産んだ子供なんだろう。私は傘を脇に抱えて、猫を抱き上げようと腕を伸ばした。…けど、猫は人間が怖かったのだろうか、私の腕の間をすり抜けて逃げてしまう。脇から傘がすべり落ちたけれど、私はそれも気にせずに、猫を追いかけた。
猫は、それほど遠くには逃げなかった。街路樹の陰に隠れてじっとこちらの様子を伺っている。
そっと、手を伸ばした。猫はその手と私の顔を交互に見つめる。…警戒している。それがありありと見て取れる、けれど、私は手を引っ込めない。やがて猫は、少しだけ戸惑って…そっと、こちらに近寄ってきた。
驚かさないようにそっと、猫を抱き上げた。今度は抵抗しない。少しは心を許してくれたようだ。
私は落としてきた傘を拾い上げた。内側に水がたまって、ひっくり返すとじゃばっと音がした。
―――濡れちゃったな。
すっかり雨に当たってしまった。だから、頭のてっぺんから足の先まで、びしょ濡れだ。
でも、いいや。どうせ戻ったら、着替えがある。
びしょ濡れの体で、びしょ濡れの猫を抱いて、びしょ濡れの傘を差して歩いた。その姿は自分でも滑稽だと思うけれど、小さな命を助けたんだと思ったら、少し誇らしくもあった。
***
「おかえり…っ、びしょ濡れじゃないか!」
「ただいまぁ。ちょっと濡れちゃった」
「ちょっとじゃない!どうして傘を持っていったのにそんなに濡れてるんだ!」
「ちょっといろいろあってねぇ」
そういって私が彼に見えるように猫を差し出すと、ちょうどタイミングよくみゃあ、と鳴いた。
「…その子猫を追いかけたから、そんなに濡れたのか?」
「大正解です」
「…まぁ、君らしいといえばらしいけどね」
あきれたように笑った明智くんは、ロッカーから出してきたタオルをもって私のほうへとやってきた。そうして猫を取り上げて、慣れた手つきで水分を取っていく。
「君のほうもはやく拭いたほうがいい。風邪を引くよ。それと、できれば着替えたほうが…」
「大丈夫。着替えはあるから。…でも、警視?仕事中に私服になってもよろしいんですか?」
わざとイヤミ口調でたずねると、彼は少し意外そうな顔をして、こういう場合仕方ないだろう?と言って笑った。そのときに、私の頭をぽんぽんと軽く叩いて。
…雨で体が冷えているせいだ。きっとそうに違いない。軽く触れただけの彼の手が、とても温かかったなんて。
明智くんは、最近はすっかり使われないストーブの前に行くと、スイッチを弱にひねった。私は彼が見てないそのすきに、さっさと体をふいて、着替えをすませる。どうしてこの部屋にストーブがあるのかは私は知らないけれど、多分、暖房では暖まりきらないほど、この部屋は冬になると寒くなるんだろう。それじゃなかったら、寒いと思考能力が低下する、とかいった明智くんが、自分の防寒用に勝手に置いたものかもしれない。
「くんも。こっちに来て暖まったほうがいいよ」
「うん…」
"こっちにきて" そのたったワンフレーズが、とても気になった。
また、あの日の明智くんが重なる。桜の木の下で、淡い光の下で…私を振り向いて、笑う。 ―――"おいでよ"
「っ、うん」
そんなものは幻覚であって、私の勝手な妄想であって、現実ではない。全てはあの時あった、あれだけの出来事で、それ以上でも以下でもなくて、そしてそのせいで…
私はいま こんなにも 苦しい。
「…君?」
明智君が怪訝そうな顔をした。私は必死で苦しみを隠して、笑った。
「大丈夫、ごめんね。ちょっと寒くって…ぼーっとしちゃっただけだから」
そんなごまかしが、彼にきくもんか。わかっていても、ほかになんていえばいいの?
私はふらふらする足で、彼の隣に座った。…ちょうどあの時と同じ、右隣だ。ストーブのあたたかさが伝わってきて、少し、心に染みた。
「…のか」
「え…?」
「…本当にっ…違うのかっ」
突然、彼に肩をつかまれた。その力は思ったよりずっと強くて、私はすぐ後ろにある彼のデスクに頭をぶつけた。でも、彼はそれに気付いていないとでも言うように、下を向いたまま動かない。
…手が、震えている。
「こんなに…こんなに、似ているのに…ちがうのかっ」
わたしよ。
「絶対に、君だと思ったんだ。 一目見てそう思った!」
私なんだよ。
「顔も、声も、笑顔も、その雰囲気も、 ―――すべてが」
そう、私なの。あなたの、言うとおりなの。
でも、ごめんなさい。私は、あなたの気持ちに答えられない。
「―――ごめん、なさい」
すき。
「私は本当に」
だいすき。
「違うの」
今でも――――すき。
「…ごめん」
明智くんの手が、ゆっくりと離れた。
私は、大丈夫、と言って笑った。笑ったけれど、もしかしたらちゃんと笑えていなかったかもしれない。
「人違いだって…言っていたのにね。…本当に、すまない」
そんなに、謝らないで。悪いのは、私なの。あなたは何も悪くなくて、…すべては私が悪くて。それに、あなたは気づいてくれた。お姉ちゃんじゃない、私に。
人違いなんかじゃ、ない。
2006.06.16 friday From aki mikami.
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