翌日。私はに頼んで、今野先生の遺品を見せてもらうことになった。まぁ遺品といっても、そんなにたくさんあるわけではない。遺されているのは画材道具や手紙、生徒の作品など、先生が大切にしていたものだけだった。
その中には、一冊のノートがあった。表紙には、私たちが卒業した年がかかれている。
私は、日焼けて古くなったノートを開いた。
1ページ目には、4月1日と書かれている。どうやら日記のようだ。内容は、今日から新学期が始まり職員会議があったことや、が料理を作りにきたことだ。どんどんページを開けて行くと、つづられているのはその度生徒のこと、のこと、そして…私のこと。
はまだ明智に気持ちを伝えていないらしい。最近はからかうと顔を真っ赤にして、先生のばか、と決まったセリフを吐く。
…応援してやりたいのにな。の顔を見てると、どうしても素直に頑張れとはいえない。いつまでも未練たらしく思うくらいなら、俺も早く彼女作るかな。
今野先生らしい、几帳面な字だ。のことを真剣に愛していたんだと、よく分かる。
は絵を書くべきだと思う。技術はもちろんだが、時々俺ですら理解出来ない絵を書く。そう言う才能は評価されるべきだ。
彼女の将来を見据える目。半ば押しつけとも取れるが、それはを思うあまりなのだろう。
最後のページは、恐らく事故に会う前日でとまっていた。年越しに向けての準備が忙しいとか、赴任先の学校で忘年会をしたとか、普通の内容だ。
私はノートをもったまま、静かに目を閉じた。
は絵を書くべきだと思う。そう思っていた、彼女の将来を、…自分自身の手でつぶしてしまった。そんな自分を、先生はきっと責めていただろう。上半身麻痺で文字を書くことも出来ないから、この先の日記を読むことはできないが、それでもわかる。誰よりものことを考えていて、誰よりもの幸せを願っていた、今野先生なら。
目をあけると、、何気なく残ったページをめくった。真っ白いページが現れる。…きっとここにも、への思いが綴られるはずだったのだろう。続けてパラパラとページを送るが、当然白いページが続いていく。
一番最後に辿り着いたとき、ページの間から一枚の紙が滑り落ちた。そのまま腕の間をすりぬけ、足元に落ちる。二つ折りになったその紙は、おそらくはワープロの感熱紙だろう。ノートの紙と違い、まだ白く新しい。一瞬、目を疑った。
まさか、手の不自由な今野先生がワープロを打てるはずがない。そう思いながら、私はその紙を開いた。
へ
出だしは、そんな風に始まっていた。
私はその紙を持って、小走りでリビングに向った。私の様子を見たは、驚いた様子でこちらを振り返る。
「ど、どうしたの、健悟…」
「、これをみて…!」
私の差し出した紙を一目見ると、は目を見開いた。穏やかだった顔が見るまに険しくなって、食入るように紙を見つめる。
「…どこでこれを?」
「先生の日記に挟んであったんだ」
「……これ、先生が…」
「残したものだと思う。…どうやって打ったのかは知らない。でも、君当てだから。…間違い無いと思う」
先生から、への手紙。
突然、強い風が入り込んできた。
へ
お前の人生をを奪った俺を恨んでるだろう。
…俺はずっと愛してた。
だから、明智に渡したくなかった。ごめんな。
でも、もう終わりにしようと思う。
この意味、わかるよな。
お前は…幸せになれ。出来るなら、明智と一緒に。
あと、絵を書いてくれよ、俺の変わりに。
お前が絵書きになって、個展でも開いてくれたらいい。
お前の幸せを願ってる。
今野和幸
風がふわりと優しくなった。目の前のの肩は、小さく震えている。
「ずっと…」
掠れる声を絞り出す。ぱた、と、紙の上に雫が落ちた。
「ずっと…許されないまま生きていくんだと…思ってた」
それは、私たちの関係が、と言う意味だろう。今野先生に許されない愛情を抱えたまま、ずっと生きていく…そんな日々を、想像していたのだろう。
「でも、…先生は、許して…くれた、んだよね」
「」
震える肩を抱き寄せると振り返って、今までで一番強く、強く抱きしめ返してくる。
「私、健悟を好きで…いいんだよね?」
「当たり前だろう」
「…健悟っ」
私の胸に、温かい涙が染みてきた。声を上げて泣く彼女を、私は今はじめて見た。頭を何度も撫でると、しゃくりあげながら好き、大好き、と、何度も何度も繰り返す。
幸せになります。
そう心の中で誓う。もちろん、今野先生に。
の涙が枯れるまで、ずっとそうしていた。
あの後、は本格的に絵を書くために、美大に通い始めた。
あのとき、には教えなかったことがある。…今野先生の手紙は、一枚ではなかったのだ。それを教えなかったのは、もう一枚はきっと、私にあてたものだろうと思ったからだ。それに、とてもに魅せられる内容ではなかったからだ。
私は自分のデスクに座って、それを開いた。
きみのいろは ぼくのいろ
たった一行。だが、この一行は、今野先生から私への、メッセージだ。
はずっと 俺のものだ
携帯が振動した。ディスプレイをのぞくと、、と表示されている。私は通話ボタンを押して携帯を耳にあてた。
『あ、健悟?仕事終った?』
「うん、終ったよ」
『よかった。じゃあ、これからご飯いかない?』
「いいね、いこうか。じゃあ、そっちまで迎えにいくよ」
『本当?ありがとう。まだ大学にいるから』
「わかった」
は嬉しそうにありがとう、と言うと、電話を切った。
はずっと 俺のものだ
違う。
はのものだ。の色は…鮮やかな、新緑の色は、誰にも染められない。
(その色を、守り続けていく)
2007.06.13 wednesday From aki mikami.