(Don't run away. )
体が重い。


家のベットに沈んで窓の外を眺める。ふらふらと意識の淵をさまよう感じだ。


あのあと、私は家に真っ直ぐ連れていかれて、そのままベットに放りだされて、数時間も殴られた。勿論目に付くところに痣をつけるようなへまはしない。服で隠れる範囲、腹や太ももが、鬱血で紫に染まっている。


こうやってぼんやりしていると、明智さんの顔が頭に浮かぶ。楽しそうな顔、疲れた顔、真剣な顔、優しい顔…


私は、明智さんを巻き込んでしまった。私と兄とのことに。私が明智さんに出会わなければ、巻き込むことはなかったのに。


自分のことをかぎまわる明智さんを、あの兄が放っておくわけがない。それに、私のことも。…私を絶望に叩き落とす計画をぶち壊したのは、紛れもない明智さんだ。私たち二人とも、今兄の中では一番憎い存在のはずだ。


ふと、そとからエンジン音が聞こえた。この家の前に止まる車なんて、一つしかない。…兄の車だ。


「っ!」


恐怖が込み上げる。まださっきの傷も癒えないうちに、さらに殴られるのか。ノブが回って、乱暴にドアがあけられた。逃げたい、けれど体が動かないし、この状況で逃げる場所なんて、ない。


「…


低く、冷たい声がした。


「お兄ちゃん…」
「病院へ行く。 …入院だ」


そう兄が言ったと同時に、後ろにいた秘書さんが私の体を持ちあげた。無理矢理車イスに座らせて、ゴムで体を縛り付ける。


入院―――ということは、"また"あの病室から逃げられなくなるってことだ。


「……いや」
「自業自得だ。自分の立場をわきまえろ」
「やだ!お願いおにいちゃん、許して!」
「…」


私の叫びは、まさか兄に届くはずがなかった。今までだって、ずっと届かなかったのに。


「…連れていけ」


これからだって、届くはず…ないんだ。



◇ ◆



あれから、一週間がたった。


半年前まで閉じ込められていた部屋に、また舞い戻ってきてしまった。窓にはカーテンが引かれている。…ずっとベットに縛り付けられる生活。部屋の外に出ていいのは、トイレと入浴のときのみ。…もう、抵抗する気すらなくなってしまった。たぶん、兄の気が済むまであと半年はかかるだろう。


兄は、ほぼ毎日ここにきて、そのたびに、私を殴った。ここは病院だけど、この部屋に入ってくるのはいつも決まった看護士さんと、苅田先生のみ。たぶんみんな事情を知っていて、金で口止めされているんだろう。


枕元に手を伸ばした。…ケータイが、青く点滅している。たぶん、明智さんだ。昨日から、連絡を入れてくれてるんだろう。


「…明智さん」


名前を呼んで見る。けど、彼に声が届くわけじゃない。例え届いたって、私は今、彼を頼っちゃいけない。これ以上、巻き込んでは…


でも。


でも、今の私から彼をとったら、もう二度と立ち直れないんじゃないだろうか。人として生きていけないんじゃないだろうか。


もう十回近く電話がかかってきている。メールも二通たまっている。読んでしまったらきっと耐えられなくなると思って、一つも読んでいないけれど…もう、メールを見なくても、耐えられない。


一通目のメールを開いた。


『大丈夫ですか?』


一週間前にきたメールだ。たぶん、他に書きようがなかったんだろう。私が兄に何をされたかなんて知らないし、何かされているのかすらも知らない。


今度は、二通目を開いた。


『メールを返せない状況だと判断しました。もしかしたら、読むことすら出来ていないかもしれませんが…これから、貴方の家に行きます』


これは、三日前のメール。受信時間は11時28分。仕事の合間を縫って送ってくれたんだろう。仕事中なら、万が一にも兄に見られることはない。


私の家にいって…それから、どうしたんだろうか。明智さんのことだから、きっと色んなところを探してくれてるかもしれない。でも、明智さんの知っている私の行動範囲なんて、家と病院と本屋と近所のスーパーくらいだから、すぐに当てがなくなっているだろう。…もしかしたら、兄に直接聞くなんてこともあるかもしれない。でも、頭のいい明智さんだからそんな無駄なことはしないかもしれない。


ここにいると、何もわからない。太陽の傾きも、空の色も、風の強さも。明智さんのことだって、かもしれない、って予想するだけで、確かなことは何一つない。


今わかるのは、ガラスを打つ雨の音だけだ。


すると、不意にドアを叩く音が聞こえた。私は身をすくめ、携帯を枕の下に隠す。診察の時間にはまだ早いし、兄だって仕事のはずなのに…もしかして、また殴られるんだろうか。今度は動けなくなるまで…


想像すると、体が震えた。もう一度響くノックに返事が出来ずに、ただ自分のこぶしを見つめる。すると、ドアの向こうから小さく、落ちついた声が響いた。


「…さん」


明智さんの声だ。


何で。どうして明智さんが。この部屋のドアには面会謝絶の札がかかってるはずだし、私がここにいることは、兄が徹底的に隠しているはずなのに。
だけど、そんなことどうでもよかった。明智さんがどうやってここをつきとめたのかなんて、今はどうでもいい。それより、早く明智さんの顔を見たい。私は震える声で、はい、と答えた。


失礼します、といって入ってきたのは、会ったときのような綺麗な笑顔だった。全身から力が抜けていくような気がする。


明智さんは後ろ手でドアを閉めると、パイプ椅子をを出してベットの横に座った。


「…明智、さん……」
「金田一くんが貴方を見かけたと聞いて、病室を調べてもらいました。…面会謝絶の札は、単なる人除けと判断しましたが…どうやら正しかったようですね」
「…どうして」
「助けにきました。…と言っても、私に出来ることは少ないかもしれませんが…今よりはマシなはずです」
「助けにきたって…私はただ、入院しているだけで…」
「…気持ちはわかりますが、嘘はいけません」


急に立ち上がって、掛け布団を剥いだ。全身の痛みで抵抗できないでいると、失礼します、と言いながら腕をまくる。


「っ、」
「…やっぱり」


鬱血。
紫に浮かび上がる無数の痣に、明智さんは顔を顰める。ここまで見抜いていて、明智さんは私を"助ける"といったんだ。


だけど、これ以上兄とのことに巻き込むわけには行かなかった。首を突っ込めば、何があるかわからない。自分の会社で雇ってきた人間を、いとも簡単に殺せるのだ。会ったばかりの刑事を殺すなんて、あの人にはわけないことだ。


「―――ここから出ましょう、さん」
「…だめ」
「ここにいたら、貴方だってどんな目に合うか…!」
「でも!これ以上明智さんを巻き込むわけには行きません!もうこれ以上ないくらいに巻き込んでるけど…それでも!今からならまだ間に合うかもしれない…」
「間に合っても間に合わなくても、私は引くつもりはありません」
「…私のためだって言うなら、大丈夫です。兄は私を殺しはしない。…絶望の底に叩き落として、じわじわと甚振るつもりですから」


私の言葉に、明智さんが次の言葉を言いよどんだ。…彼の知らない私たちのドロドロした部分。その深さを感じたんだろう。


「兄妹なのに…なぜ…」
「……私が…母を殺したから」
「殺したって…あれは事故でしょう!雪道で滑って転んで車道に飛び出したんです」
「私が押さなければよかったんです。…転んだのだって私なんですよ?」
「だからって、誰があなたをせめたりしますか。 …あなたはお兄さんにコントロールされているんじゃありませんか?偽った罪の意識を植え付けられているんです」
「それは違います。確かに昔は、お前がすべて悪いって言う兄の言葉を信じていました。けど、今は違う。あれが普通の人から見て事故だってことは、ちゃんと理解できてます。 でも、……それでも、私は自分が許せないんです」


だからこそ、ずっと兄の仕打ちにも耐えてきたんだ。どんなに怖くても、逃げたくても。自分が自分を許せないから、でも自分で自分は裁けないから。……誰かに裁いてもらうしかなかったから。


「…自分が許せないのは、当然のことです」


明智さんが、静かにそういった。私が顔を上げると、今までで一番悲しそうな顔をした彼がそこにいた。


「私だって同じことがあれば、自分を許せないでしょう。…しかし、あなたのやっていることは矛盾してます。…あなたは自分が悪いといっておきながら、お兄さんを悪者にしている」
「そんなこと…!」
「あります。許されるより罵られるほうが悲観ぶることができる」
「っ、」
「あなたはすべてから逃げているだけです」


明智さんの瞳が、ゆらりと揺れた気がした。


ゆれているのは私のほうだった。私の目からは、いつの間にか涙がたれ落ちていた。…そして、私の脳も、心も、ゆれていた。明智さんの言葉に大きく揺さぶられていた。


かわいそうな私?そんな風に思ったことはなかった。…なかったはずなのに。だったらどうして涙が出るんだろう。彼のいったことが言いがかりなら、そんなことないと言い返せばいいのに。


 言い返せない、私は。


明智さんは、私の肩を優しくたたいてくれた。その感触にまた涙が出て、折り曲げたひざに顔を擦り付ける。


さん、ここから出ましょう」


彼の声が降ってきて、そのまま抱きしめられた。その温もりに心が溶かされて、私は震える声で、はい、と答えた。









2008.02.10 saturday From aki mikami.