罪と罰と恋と愛


Scene.1


朝起きた時、神威はもう布団の中にいなかった。…急に言いようのない不安に襲われて、布団から飛び出してリビングに行くと、お母さんの作った料理をおいしそうにもしゃもしゃ食べている神威がいた。それでほっとして、私も神威の隣で朝ご飯を食べた。


そのあとは、お母さんに別れの挨拶をして、家を後にした。そのまままっすぐ船に向かうかと思ったら、神威の方から「どこかで話していこう」と言われて、…また、ものすごく不安になった。けれど、なんとなく拒否できない雰囲気だったので、昨日銀さんと一緒に来た公園まで神威と一緒にやってきた。


まだ早い時間だし、今日は平日なので、さすがに子供達の姿はない。かわりに散歩をしている妊婦さんと、ホームレスらしき無気力な大人が隅の方にちらっと見える。銀さんが言っていた「マダオ」という人たちはこういう人たちなんだろうかとぼんやり思った。この人たちにもいろんな思いがあっていろんな人生があるんだと思ったら、少し切ない気持ちになった。


とりあえず目についたベンチに腰掛けると、神威も私の隣に座った。けれど、話そうといったわりに何かを話し始めるわけではなくて、少し離れたところにいる妊婦さんを見つめているようだった。


…きっと、まだ何かを考えているんだろう。昨日もあのあと、結局何も話さないまま、二人とも眠りについてしまったし、今朝だって日常会話しかしていない。


とりあえず神威の方をできるだけ見ないようにしようと、ベンチの横にある小さい花壇を見つめた。この星型のお花、名前は確か、アングレカムだったはず。冬に咲く花で、とてもいい香りがする。花言葉は、確か…


「…


考えていると、控えめに私を呼ぶ声がした。振り返ると、神威はぼんやりと空を見つめていて、その手にはいつの間にか封筒が一枚握られている。


ドキリとして、一瞬息が詰まりそうになった。意識して深く呼吸をしながら、私に向かって差し出される封筒を受け取る。


表にも裏にも、封筒には何も書かれていない。中に何かが入っているのは厚みでわかるけれど、それをすぐに開くのは、なんとなくためらわれた。


「…これ、なに?」


恐る恐る尋ねてみる。神威は相変わらず私の方を見ないままで、その顔は不自然なほど何の感情も浮かんでいない。


の本当の親の住所と、昨日の写真」


その言葉に、ああやっぱり、と思った。昨日帰ってからお母さんが何も言わなかったのもおかしかったし、寝る前に神威が聞いてきた質問とか、今の態度とか、いろいろなことを合わせて考えたら、やっぱりこういう事なんだろうと、うすうす思っていた。


「…どうするかは、俺たち二人で決めろってさ。会いに行くも行かないも、自由だって」


神威の声は淡々としている。けれど、それはただ感情を押さえつけているからで、頭の中ではきっと色んなことを考えていて、言葉ではうまく言えない気持ちを、たくさん抱えているに違いない。


「俺にはわからない。どうするべきか、どうするのが正解か」


封筒から写真を取り出す。そこに写っている親子は本当に仲がよさそうな、地球ならどこにでもいる普通の親子だ。


けれど、今はこうして離れ離れになって、地球で言う普通とはかけ離れた生活を送っている。


どうするのが正解かなんて、私にもわからないよ。そう思ったけれど、言葉にすることはできなかった。言葉にしてはいけないような気もした。


やがて、神威は私の手元の写真に目を下ろしたあと、小さく息をついて、口を開いた。


「…帰りなよ、本当の親のところに」


その言葉の響きに、ドキリとして神威を見上げる。


「昨日、言われたんだ。秋が俺と一緒にいることを選んだのなら、この先どうするのかも二人で決めるべきだって」


その青い瞳は、じっと遠くの空を見つめていて…こんなに見つめているのに、ちっとも私の事を映してくれなかった。


「俺とは…生きていれば、いつでも会える。だから、帰りなよ」
「…何、言ってるの?どういう事?」


そう言った自分の唇が、少し震えているのが分かった。私の言葉に神威がゆっくりと振り返る。その顔は無感情で、無機質で、私の方を見ているのに見ていないようで、少し怖かった。


「言葉通りの意味だよ」


冷たい声がぴしゃりと言い放つ。まるで突き放すような言葉と態度に、唇だけじゃない、手まで震えだして、持っていた写真を軽く握りしめた。


「そんな言い方…私、別に帰りたいなんて思ってないよ」
「でも、この間死にかけただろう」
「ッ、それは」
「俺といるより、地球にいたほうが安全だろ。地球に残る口実になって丁度いいじゃないか。本当の親と住むのがいやなら、育ての親と住めばいい」
「そんなこと…私は望んでない!」
「いいから会いに行けよ!」


神威の荒い声に、全身がびくりと震えあがった。神威は顔を俯けたまま、拳を握りしめている。ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほど、強く。


「…死んだと思ってた家族に、また会えるんだ。会いにいけよ」
「ッ…」
「死んだら…もう会えないんだよ」


か細く、消え入りそうに、神威は言った。言葉尻は震えていて、こんな風に感情をむき出しにする神威を見るのは初めてで、見ているだけで、私まで胸が苦しくなってくる。


神威が見ているのはきっと、私じゃない。神威のお母さんだ。私をお母さんと重ねて、私を突き放してでも、私を守ろうとしている。だけど、私はそんなこと望んでない。ああ、きっと神威たち親子は、こんな風にすれ違ってしまったのかもしれない、そんな風に思った。


だけど、だからこそ、私はここで折れちゃいけない。直感的にそう思った。きっとこれからいう言葉が、神威を傷つけてしまうかもしれない。それでも、今ここで会話をやめるのは、絶対にいけないことだと思った。


「…それは、神威のお母さんの事を言ってるの?」


私の言葉に、神威の体が大きく震えたのが分かった。それも構わずに、私は言葉を続ける。


「…神威のお母さん、星から離れたら死んじゃうって…だから星に戻そうとしたって…それは、生きてればまた会えるからって、神威はそう思ったからでしょ」
「…なんで知ってるんだよ」
「話をそらさないで。ねェ神威、私が神威と一緒にいるのは、危険も承知の上で納得して、自分で決めたことだよ。それをとやかく言うのはおかしいし、神威が責任を感じる必要はない。神威がこの間自分で言ったことだよ」


神威が小さく息をのむのが分かった。もしかしたら何か言い返す言葉を捜しているのかもしれない。だけど、私の言葉は止まらない。


「神威のお母さんが星に帰らなかったのだって、神威のお母さんが納得して、自分で決めたことだよ。自分の体の事、長く生きられないこと、全部承知の上で、納得して、それでも神威たちのそばにいたいって、きっとそう思ったんだよ」
「そんなこと、わかってるよ!」


神威が、公園中に響き渡るくらい大きな声で言った。遠くにいた鳩たちが、驚いたように一斉に飛び立っていく。散歩していた妊婦さんも、無気力に過ごしていたホームレスたちも、きっと私たちを見ているだろう。


神威の体はずっと震えている。拳は相変わらず握りしめられていて、元々白い肌がさらに白く見える。その手に重ねるように私の手を乗せると、ぱしんと弾き返された。


「…わかってるよ。あの人が自分の命より…俺たちと生きる道を選んだことくらい。それに納得して、受け入れていたことくらい。…けど」


俯いた顔の、横髪の隙間から見える唇が、ぎりぎりと噛みしめられる。神威の中で抑えつけていた感情が、きっといま、溢れようとしている。切なくて、胸がぎゅっと締め付けられた。


「…俺は…生きていてほしかった」


伏せられた目元から、一筋涙がこぼれ落ちていった。


「どんなにあの人が納得していても、俺は…生きていてほしかった。もう二度と会えなくても、…一緒に、いられなくても」


声が震えている。こんなに頼りない神威を見るのは初めてだった。その姿に、昔の自分が重なる。神威に助けてもらうまでの、お母さんを助けたくて、でも身動きが出来なくて、情けなく祈り続けているだけの自分。そんな自分を、神威を、助けてあげたくて、夢中で手を伸ばす。神威が身じろぎするのも構わずに、震えたその体を、強く強く抱きしめる。


「…私は、神威のお母さんじゃないよ」


腕の中の神威が、小さく息をのむのが分かった。


「だから、どこに行っても、…どこにいても、死んだりしない。だから、どこにでもいられるよ」
「…でも、俺といたら、また危ない目に合うかもしれない」
「私が危なくなったら、神威が守って」
「…守る?」


神威が僅かに顔を上げた。私も少しだけ体を離して、神威の顔を覗き込む。


じっと私の目を見つめる神威。今度はちゃんと、私が映っている。青い目が涙でキラキラ光っているのがたまらなく辛くて、涙の筋を指で拭い取った。


「…神威が私を守ってくれるなら、私も神威を守る。私にできることなんて、あまりないかもしれないけど、こうやって泣きたいときとか、誰かに甘えたいときは、私が抱きしめて上げる」


それが守ることになるのかは、正直自信がないけれど、私が神威にできることは、全部してあげたい。私が支えになれることは、全部全部してあげたいから。


「…だから、お願い。そばにいさせて」


ずっとずっと、この言葉を言いたかった。神威と一緒に旅をしてから、ずっと言えなかった言葉。


それを今ようやく、こうして言葉にして伝えることが出来た。


神威はしばらく黙り込んでいたけれど、やがて私の背中に腕を回して、小さく頷いた。縋りついてくるような力が愛おしくて、応えたくて、頭をできる限り優しく、何度も、何度も撫でる。


「本当のお父さんとお母さんには、ちゃんと会いに行く。でも、それは今じゃなくて…私の中で、もう少し、心の整理がついたらにしたいの」


今は、大好きな育てのお母さんと、大好きな神威を、大切にしたいから。今みたいに会いたいか会いたくないかよくわからない状態で会うより、ちゃんと「会いたい」と思えた時に会いに行きたいから。


「…だからそのときは、神威。一緒に会いに行ってくれる?」


この人が私の世界一大切な人ですって、胸を張って紹介したいから。


「仕方ないな。ついて行ってあげるよ」


ははっと笑いながら、そう小さくつぶやいた神威。その言葉がうれしくて、愛おしくて、神威を抱きしめる手に、強く力を込めた。


この先も、ずっとずっと一緒にいられますように。風に乗ってやってくるアングレカムの香りをかぎながら、そう強く願った。


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2021.02.25 thursday From aki mikami.