罪と罰と恋と愛


Scene.1


必死で走ってきて、ようやく人の気配がないところまでやってきた私は、念のため辺りを警戒しつつ立ち止まる。赤ちゃんはまだぐずっているけれど、大泣きしているほどではないので、泣き声で居場所がばれる心配はなさそうだった。


改めてぐるりと辺りを見回す。そこは廃屋か何かなのだろうか。草が鬱蒼と生い茂っていて、辺りには廃材がたくさん転がっている。プレハブ小屋みたいなものがいくつか立っていて、壁や屋根はすっかり錆びてボロボロになっていた。


江戸にも荒れたところはあるんだなと思いながら、乱れた息を整えようと大きく呼吸する。そうしていると、後ろからのんびりした声がかかった。


「もういいの?」


私の隣で立ち止まった神威は、全く息が乱れていないし疲れた様子もない。私が「もう大丈夫そう」と返すと、肩に担いでいた女の人を少し乱暴に下ろして、足元の廃材にたてかけるように置いた。


「オイお前らァ!どういうことだこれは!」


向こうから走ってきた阿伏兎が、疲れた様子でそう叫ぶ。その瞬間私の腕の中でぐずっていた赤ちゃんが突然大声をあげて泣き始めた。さっきも近づいてきた瞬間泣いていたから、阿伏兎がよっぽど嫌われているんだろうか。なんにしても、赤ちゃんなんて抱くのは初めてであわあわしてしまう。どうしたら泣き止むのかもわからなくて、ただ慌てふためくしかなかった。


「ちょっと!阿伏兎が近づくから泣いちゃったじゃない!あっち行ってよ!しっしっ!」
「あァん?俺のせいだってのかァ!?」
「ああ、もう。よーしよし、怖くないですよー。あのおじさん顔はちょーっと怖いけど、性格は一応優しいから」
「誰の顔が怖ェってんだ、あァ!?」


私の言葉に阿伏兎が無駄に反応するものだから、いよいよ大声を上げて泣き出してしまう赤ちゃん。お母さんも目が覚めないみたいだし、一体どうしたらいいんだろう。というか、こうやって抱っこしているだけでも壊してしまいそうなくらい小さくて、ただおろおろするばかりだった。


「ちょっと、余計泣いちゃったじゃない!どうにかしてよ阿伏兎!」
「お、俺に言うなァ!ガキのお守なんてしたことねェんだよ!」
「だってお母さんが起きないし、このまま泣かせとくわけにいかないでしょ!どどどどうしよう!!」
「…しょうがないなァ」


私たちの会話にそう反応したのは、意外にも神威だった。神威は私の腕から静かに赤ちゃんを抱き上げると、両腕で包むように横抱きにして、慣れた様子でゆらゆら、ゆらゆらと揺れ始める。そのしぐさや抱き方は普段の神威からは考えられないくらい優しくて、静かな動きだった。


そうしていると、はじめは大声で泣いていた赤ちゃんも、段々と落ち着きを取り戻していく。その間も神威はずっと、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れて、その揺れに合わせるようにして、赤ちゃんの呼吸も静かになって、やがてすうすうと小さく寝息をたて始めた。


そぅっと、赤ちゃんの顔をのぞいてみる。さっきまでとは全く違う、とても穏やかで安心した顔で、ぐっすり眠っている。神威にこんな育児スキルがあったとは。びっくり意外すぎる。


「二人とも、声でかすぎだよ」
「うっ…」
「特に阿伏兎。ただでさえ見た目もむさいんだから声ぐらい自嘲しろよ」
「むさいってなァ…!」
「阿伏兎」
「…面目ねェ」
「それから、まだ首座ってなさそうだからしっかり首支えること」
「は、はい…」


注意が的確で、しかも異様な迫力があって、私も阿伏兎もすっかり縮こまってしまう。もしかして、お母さんに叱られているお父さんってこんな気持ちなんだろうかとちょっと思う。男女あべこべだけれども。


「二人とも、泣いたくらいでびびりすぎ。こっちがびびったら赤ん坊にも伝わるだろ」


そういうと、手近にあった廃材の上に腰を下ろす神威。その言葉には妙な説得力と迫力があって、私は思わずその場で正座して片手を高く上げた。


「はい、神威先生!」
「なんだい、くん」
「首を支えて抱くにはどうしたらいいんでしょうか!」


私の無駄な先生ごっこにも適当に付き合ってくれる神威は、赤ちゃんを抱いたまま自分の腕をポンポンと叩いた。


「まず、首がぐらつかないようにするのが大事。腕のここ。関節のところに、赤ん坊に首を乗せる」
「ほうほう」
「置くときも持ち上げるときも、必ず頭をこうやって支える」


そういうと、神威は赤ちゃんの頭を片手で支え上げて、阿伏兎の方に視線を送った。


「阿伏兎、上の服脱いでそこ置いて」
「あァ?何で俺が」
「いいから早く」


言い方は軽いけれど有無を言わせない神威の言葉に、阿伏兎はぶつぶつ文句を言いながらも上に着ていたマントのような服を脱ぐ。それから神威の指示で手近な廃材の上に畳んで置くと、神威はその上に赤ちゃんを器用に下ろした。その動きは、たぶん起こさないようにしているんだろう、びっくりするくらい優しくて慎重だった。


神威がゆっくりと赤ちゃんから手を離す。赤ちゃんはそれに気づかずにすやすや寝息を立てていて、神威が珍しく疲れたように、細く小さく息を吐いた。


「赤ん坊には背中スイッチがあるから、置くと泣くんだ」
「背中スイッチ…大変そうだね」
「すっごく面倒くさいよ。…ふぅ」


さっきまで座っていた廃材にまた腰を下ろしたと思ったら、もう一度ため息をつく神威。神威がため息をつくなんて珍しい気がして、まじまじと顔を見つめてしまう。


「久々にやると疲れる」
「あ…そっか、神楽ちゃんのお世話してたんだもんね」


なるほど、それで手慣れた様子だったのか。妙に納得してしまって、必要もないのに何度も頷いてしまった。元々「お兄ちゃん力」のある方だと思っていたけれど、お母さんが病気がちでお父さんも家にいないとなると、必然的に神威が家事や育児をやる機会も増えてくる。高い育児スキルもそういう苦労の結果なのだろうと考えると、ものすごく尊敬してしまう。


「…ありがとう、神威」
「別に」


心からのお礼に、神威はぷいとそっぽを向いて、そっけなく答えた。もしかして照れているんだろうか。そう思ったらちょっとおかしくて、ついふふっと笑ってしまう。それに神威がむっとした様子で私の方を振り返ったとき、女の人のうなり声が聞こえて、私たちは反射的に女性の方を振り返った。


「うっ…」


見ると、寄りかかるようにしていた背中を少し起こして、右腕を抱えるような体制になっている。私は急いで女性に駆け寄って、背中を支えながら助け起こした。


「大丈夫ですか?腕、怪我したんですか?」
「私より、太一は…子供はどこですか…」
「赤ちゃんならあそこにいますよ。ぐっすり眠ってます」


そう言ってちらと赤ちゃんに視線を送ると、女性は心底ほっとした様子で大きくため息をついて、「よかった」と呟いた。本当に心から心配してるのが伝わってきて、私もなんだかお母さんの事を思い出してしまう。


「あの、助けてくださってありがとうございました」
「あ、いや…助けたっていうか、なりゆきっていうか」
「なりゆき?…どちらにせよ、私たち親子はおかげで助かりました。本当に感謝しています」


そう言って女性は深々と頭を下げるので、私はぶんぶんと両手を振った。そんな風にかしこまってお礼を言われるようなことはしていない、と思う。


「あの、それより…どうして狙われていたんですか?狙われていたのは貴方じゃなくて、あの赤ちゃんの方ですよね」


私の言葉に、女性はあからさまに沈んだ表情になって顔を俯けた。いろいろ事情があるのかもしれないけれど、あの様子じゃきっとあいつらはどこまでも追いかけてくる。せっかくだから助けてあげたいけれど、事情が分からないんじゃどうしようもない。


阿伏兎が後ろで「面倒くせェからかかわるな」と言っていたけれど、それはとりあえず聞き流すことにした。


アトガキ ▼

2021.03.18 thursday From aki mikami.