summer



あっという間にやって来た夏。制服も夏服にかわり、みんなのスカートが短くなり、男の子も露出 が激しくなり…みんなそれぞれ夏の装いなのに、いつもと変わらない格好の人が一人。


「…先生…暑苦しいです、その格好」
「うるせーな、着てる俺も暑いんだよ」


いつもどおりスーツのズボンにワイシャツにネクタイ、白衣に眼鏡に煙草を銜えて、ただ一つ夏ら しいアイテム「うちわ」を持った坂田銀八が、汗だくになりながらパタパタと自分に風を送ってい る。


「だったら脱げばいいじゃないですか」
「あのなー、俺主人公なの。主人公ってのはコロコロ服装変えちゃいけねーんだよ」
「…はァ、そうですか」
「そうなんだよ。いいから早くそれ終わらせてくれや」


そう言って銀八が目を走らせたのは、私の手元にある紙だった。…早くしてと言われてもなァ。正 直何を言われても無理なもんは無理だ。


「今から決まりませんよ…進路なんて」


「今からって…オメー高3の夏っつったら普通は進路も決まって勉強にもがいてる時期だろーが」
「私は決まってないんです」
「まァ正直お前ならどこでも行けると思うし?うるさく言うのも面倒くせーんだがよォ。俺も上か らやりなさいって命令されてるからさァ。逆らえないわけよ」
「何言ってるんですかいつも逆らってるくせに」
「逆らってねーよ。お茶目な反抗だよ」
「同じだからそれ!」
「ばっか、全然違うからねコレ!俺のはコレ最終的にはちゃんと言うこと聞くからね、コレ」
「コレって何回言うんですか!…ああもう。わかりましたもういいです。アンタと話すと疲れます 」
「奇遇だなー、俺も」
「死ね」
「オイオイ、先生に向ってそりゃねーだろ」
「…アンタより遅く生まれたことを心底後悔してますよ」


机の上にシャープペンを放り出してイスに背中をもたれる。…まったく、せっかくの貴重な時間な のに。


私たちは今、放課後の国語準備室に二人きりだ。SHRでいきなり呼び出され、神楽ちゃんと妙ち ゃんに襲われたらぶっ飛ばしてやれ的なアドバイスをいただいて、あるわけないと思いつつ甘い展 開を想像しながらやってきたら、室内はそれはぐちゃぐちゃで蒸し暑くて、しかもそんな中で進路 希望調査の書き直しをさせられるなんて。


「大体何ですかこの部屋!ここはアンタの部屋じゃねーんだよ!」
「だって俺しか使ってねーんだぜ。もう俺の部屋みたいなもんだろ」
「違うから。ってかたとえ先生の部屋でもこれは汚なすぎ。空気も悪いし」
「なんだよ注文多いな。じゃあお前が片付けてくれんの?」
「別にいいですけどッ」


冗談で、軽い気持ちでそう答えたのに、銀八はマジで!と嬉しそうに立ち上がった。今までのだら けぶりが信じられない程豹変している。


「マジで!マジで片付けてくれんの!?」
「えッ」
「やった~!もう自分でも手ェつけらんなかったんだよなァ~!でもお前がやってくれんなら万々 歳だわ!」
「え…ちょ、先生?」
「実はさー、修学旅行の連絡書類どこやったか分かんなくなってさァー。ついでに見つけてくれよ 」
「えええェェェ!そんな大事な書類なくしてたんですかアンタはァァァ!」
「っつーわけだからよろしく。進路希望は俺が適当に書いといてやっからよ」


そう言って上機嫌で私から進路希望を取り上げた銀八。適当にって、アンタ馬鹿じゃないの?っつ ーか馬鹿だろ、絶対馬鹿だろ。でもまァいきたくもない大学の名前を書くくらいなら部屋の掃除で もしてる方がマシだ。


そう思いながら立ち上がり、改めて室内を見回す。…汚い、汚なすぎる。書類やらジャンプやらだ けではなく、ゴミまでその辺に散らかっている。


…学校でこれなら、家はもっとヒドイのかな。そう頭を過ぎったけれど、それを片付けてあげるの もいいかもな、とすぐに余計な妄想にとらわれた。それを頭を振って打ち消すと、まずはごみ捨て から始めようと見当をつける。


「先生ー、ゴミ袋ないのー?」
「あー、多分机の一番下の引出しん中だわ」
「はいはい」
「ところでさー、お前書かれるなら就職と大学とお嫁さんどれがいい?」
「………………は?」


引出しに手をかけながら思わず振り返ると、銀八は割りと真面目な顔をしている。…そんな顔で聞 くことじゃないと思うんだけどね。でも銀八は時々真顔で冗談を言うので、たぶんこれもそうなん だろう。



「……じゃあ、お嫁さんで」


と、私は冗談にのることにした。就職も進学もしたくないし書かれたくないと言うのもあったりす る。



「了解ー」


そう言って片手をあげると、どうやら本当に書き始めたようだ。変なところで律義だな…と言うか あれは本気だったのか。そんなことを思いながら引出しを開け、ゴミ袋を引っ張り出して口を広げ る。それから手近にあるゴミを拾いあげてリズムよく袋に放り込む。ついでに大事そうなものは種 類別に分けて山積みにした。


そうしていると、銀八があのさ、と声をかけて来る。私がそれになんですかと答える前に、銀八は 勝手に話を始めた。


「将来の夢もお嫁さんにしといたから」
「はァ、そうですか」
「でもさー、実際どうなわけ?」
「は?」
「いや、お嫁さん」
「どうって…大学も就職もいやな私には一番いい選択肢かもしれないですけど」
「いやー、っつーかさ…いんの?」
「何が?」
「相手」


その言葉に動きを止めて、また銀八を振り返る。…なんで、そんなこと聞くの?


「…今はいませんね。あれから彼氏なんて出来ないんで」
「へー。じゃあお前、俺のお嫁さんになる?」
「は…………はァァァァ!?」


余りにも驚きすぎて、声を張り上げてしまう。え、なにそれ、俺のお嫁さんって、それって要する に、プププププ、プロポーズゥゥゥ!?


「せせせ先生!そそそそれ!」
「いや、プロポーズじゃねーから。勘違いすんなよ」
「へ?」
「いやさー、俺って片付けとか苦手だろ?家に奥さんがいれば家のこと全部やってもらえんじゃん 」
「……そんなことかよ」
「そんなことってお前、重要だぞー。家に帰ってくったくたの身体引きずって飯作って食い終わっ たら寝る間も惜しんで洗い物と洗濯してよォ。でも奥さんいたらそんな心配しなくてすむわけじゃ ん?」
「…それ、奥さんじゃなくて家政婦でいいんじゃないですか?」
「あー、家政婦な。ぜんっぜん考えてなかったわ。…なるほどそういう手もあんのかー」
「なるほどじゃねーっての。なんだよアンタ、喧嘩売ってんの?」
「いやいや、喧嘩なんて売ってないよ。大真面目」
「あのねェ…お嫁さんってのは、一生苦楽を共にするパートナーですよ?結婚するからにはちゃん と愛してあげなきゃいけないの!」
「愛ねー。まァ一緒に暮らしてりゃ好きになんじゃね?」


ゆるーくそう言って立ち上がる銀八。ペタペタサンダルをならしながら歩いて来て、何の前触れも なく窓を開ける。


「……大体、恋人とかいないんですか」


私は震えながら、そう尋ねた。


「あ?」
「私にばっかり聞いて…先生の方は恋人、いないんですか?」
「……いたら、どーする?」


窓の外を見たまま、意地の悪い笑みを浮かべて言う銀八。…さっきから、この人は私の気持ちに気 付いてるんじゃないだろうか…。


「ど、どーするって……どうもしませんけど」
「…まァそうだよな」


煙草の灰を窓枠で落として、また一口吸い込む。その顔があまりにもつまんねェ、みたいな顔をす るから、なんだか悪いことをした気になってしまう。…でも、他に答えようがないじゃない。


「いねーよ、彼女なんて。いたらお前に嫁に来いなんて言わねーよ」
「…そうですよね」
「そうそう。…ま、好きな人ならいなくもないけどな」
「えッ…」


誰?そう聞こうとしたら、銀八は窓から軽く身を乗り出した。…少し強く風が舞い込んできて、煙 草の匂いがふわりと香る。


「いつか教えてやるよ」
「…はァ」
「なにそのうっすい反応。教えてほしくないわけ?」
「気になりはしますけど…」
「だろ?だからいつか教えてやるよ。あと10年後くらいに」
「10年後って遅!意味ないじゃんそれ!」
「たりめーだよ。そんな簡単に教えてたまるかってんだ」
「…ケチ」
「あ?」
「なんでもないです。…でも、その人がどんな人か位は聞いてもいいですよね」
「…どんな人…って…まァガキじゃねーことだけは確かだな」
「……はァ」
「ひねくれてるっつーかなんつーか…」
「かわいいですか?」
「顔はまーまーだな。性格は可愛くねェけど」
「…なんで好きなんですか」
「知らね。…ホント、何で好きになっちまったのかなー」
「そんなこと私に聞かれても…」


困る。とはいわなかったけど、多分伝わったんだろう。だよな、といって銀八は窓から離れていっ た。机の上にあるパソコンの電源をつけると、椅子に座って画面を見つめる。…どうやら画面が消 えていただけのようだ。


「じゃ、俺ちょっと仕事すっから。片付けよろしくー」
「…はい」


そう答えるのだけで精一杯だった。…銀八に、好きな人がいる。たったそれだけで、これほどショ ックを受けるなんて。


銀八の好きな人。


それが一体誰なのか…考えても答えは出そうになかった。大体学校の人だっていう保証もない。学 校の人っていったって、女の先生はほとんどいないし…


それから銀八の部屋がきれいになるまで、ずっとそのことを考えていた。







「―――…ってことなんですよ、高杉センセ」


翌日、私は昨日の出来事すべてマシンガンのように喋り、売店で買った紅茶を机の上に置きながら そう言葉を締めくくった。話を聞いた高杉先生は、心底面倒くさそうな顔でため息をつくと、私の 紅茶を勝手に奪ってゴクゴク飲みはじめてしまう。


「ちょっと先生、それ私の紅茶!しかも無視?」
「…うるせェ、徹夜明けで頭痛んだよ静かに喋れ」
「あれ、なんで徹夜?」
「お前がやけにご執心なアイツに付き合わされたんだ」
「あー、飲みに行ったんだ」
「あァ」


といって私に紅茶を返すと、またパソコン画面に集中してしまう高杉先生。


…この学校でおそらく一番ヒマな先生であろう保健医、高杉晋助先生は、私の唯一の相談相手。ク ラスのことから恋愛のことまで全部開けっぴろげに話せるのは高杉先生だけだ。


「ねー先生。誰だと思う?銀八の好きな人」
「…知るか。あいつの考えることなんてわかんねーよ」
「そうかもしれないけど…予想つかないの?友達なんでしょ?」
「あんなやつ友達じゃねェよ」
「えー、でも幼馴染なんでしょ?」
「ただの腐れ縁だ。…大体知ってたとしても俺の口から言えるわけねーだろ」
「…変なところ律儀なんだから」


言いながらソファに寝転がる。他の先生の前じゃこんなこと絶対にしないけど、先生には本性も何 もかももろバレなので気にしない。というか気にしたら気持ち悪がるに違いない。


高杉先生と銀八は幼馴染というやつで、いろんな話を聞かせてくれる。学生時代のやらかしたこと とか、それより小さい頃の話とか。先生とこんな風にしゃべるようになったのは去年の春くらいか らで、私が毎回サボりのために保健室に通っていたら、よくもまァそれだけうまく周りをだませる な、的なことを言われたのがきっかけだ。


「…顔はまーまーで、性格は可愛くなくて、ひねくれた人…かァ。どんな人なんだろ」
「まんまお前のことじゃねーか」
「そりゃー私はひねくれてますけどね。でもガキじゃないって言ってたから」
「…ガキじゃねェ、な」


意味ありげにそういって椅子に寄りかかる先生。…もしかして、この人は銀八の好きな人を知って るんじゃないだろうか。そう思って視線を送ると、それに気づいたように私を一目見てから目をそ らし、小さくため息をついた。


「睨んでも何しても教えられねーな」
「そんな期待してませんよー。先生はそんなに甘くないってわかってますから」
「だったら見んな」
「いいじゃないですか見るくらい。それくらいさせてくれないとやりきれないんですよ」
「んなこと知るか」


髪をかきあげる先生。軽く目を瞑って、もう一度ため息をつく。…どうやら相当疲れているらしい 。銀八の方はそんな様子なかったのになァ。


「大丈夫ですか、先生。もう帰った方がいいんじゃないですか?」
「帰れるならとっくにそうしてる。だがこっちも仕事があるんだよ」
「それですか?書類?」
「ああ。今日中にあげなきゃいけねーんだよ」
「…私、思いっきり邪魔じゃないですか」


邪魔ならそうだって言ってくれたらいいのに。…この人はいつも私のことを邪見に扱いながらも追 い返すことは絶対しないのだ。…たとえどんなに忙しくても、だ。私はいつもそれが不満で、不満 に思っていても結局甘えてしまう自分にいつも嫌気がさす。


先生はキーボードを叩きながら言った。


「いや、眠気覚ましに丁度いい」
「眠気覚ましって」
「話してたら気ィまぎれるだろ」
「そりゃそうですけど」
「あとちょっとだ、終わるまでそこにいろ。ついでに何でもいいから話してろ」
「何でもいいからって…気が散るってことはないんですか?」
「オメーとは頭のつくりが違うんだよ」
「…確かに人をムカつかせるのは天才的にうまいですよね」
「あァ?なんか言ったか」
「いえ、なんでもー」


と言いながら目を逸らすと、機嫌が悪そうにまたキーボードを叩く先生。それにしても同じことを したはずなのになんであっちはあんなに元気だったんだろうか。


「銀八は全然何でもなさそうだったのになー」
「アイツは授業ない時間全部寝てっからな」
「え、そうなの?」
「ああ。…まァあれだけ寝てりゃスッキリすんだろ」
「っつーかあの人はどんだけ暇なんだ…」
「暇なんじゃねェ、サボってんだ」
「………なるほど」
「まァサボってんのはいつもだな」
「それはそうですね。っていうか真面目に仕事してるところ見たことない」
「生徒にまでそう思われてるようじゃ仕舞いだな」


そういって、先生はキーボードから手を離した。…終わったんだろうか。片側しか見えない目が真 剣に画面の上をなぞった後、ため息をついて椅子に寄りかかる。


「終わりました?」
「ああ。…ったく、あのバカが」
「バカ?」
「バカ校長だ」


マウスを一度クリックすると、隣のプリンタが動き始めた。先生は辛そうに目を閉じて、機械が止 まるのを待っている。…このままだと寝てしまうんじゃないかと心配しながら、私はプリンタが書 類を排出するのを見ていた。


「校長に頼まれたんだ」
「あー。クソ、提出したらあの触覚もぎ取ってやる」


そんなことをいいながら、先生は白衣のポケットを漁った。ちゃりっと音がしたと思ったら、そこ から鍵を取り出して、一束をなぜか私の前に置く。…なんだろう、そう思って鍵と先生を交互に見 たら、先生は印刷の終わった書類を取り上げチェックしながら言った。


「銀八の鍵だ」
「え」
「バイクのな。昨日俺に預けたまま忘れてやがる」
「へー…」
「届けて来い」
「…え」
「コレを提出したら俺はすぐに帰る。あいつの顔なんざ見たくもねェからお前が届けて来い」
「な、何があったの昨日…」
「テンションの高いあいつは手におえねェんだ」


言いながら立ち上がるので、私もそれに習って立ち上がる。ソファに置きっぱなしのカバンを持っ て先生の後ろに並ぶと、そのまま保健室を出た。さっき出した束の一つで鍵を閉めて、首の後ろを 掻きながら私を振りかえる。


「…ついでに伝言だ」
「え、伝言?」
「ああ」
「…何、銀八に?」
「そうだ。何でもいいから伝えとけ。『浮かれたお前とは二度と飲まねェ』ってな」







高杉先生に言われた通りに鍵を持って職員室に行くと、銀八はそこにはいなかった。ので仕方なく国語準備室に行くけど、ノックをしても応答がない。普通の教室と違ってのぞき窓が紙で塞がれているので、中を確認することも出来ない。…絶対ここだと思ったんだけど。だって銀八が行きそうなところなんて他にないし…


もしかして寝てるんじゃないだろうか。そう思ってもう一度ドアをノックする。…けど、やっぱり応答はない。でも何だか悔しくてノブに手をかけた。


…一瞬罪悪感が頭を過ぎる。でも、これがないと帰れないだろうし…


いいや、開けちゃおう。思い切ってドアを開ける。…と、そこには机に突っ伏す銀八がいた。


やっぱり寝てたよコイツ。っつーかノックしてんのに気付かないとかどんだけ爆睡してんの?


「先生ー」


呼び掛けてみる。…けど、まったく反応を示さない銀八。


「先生ッ」


今度は揺さぶりながら呼び掛けた。すると少しだけ体が動いて、んー、と小さく唸りをあげる。


「んー、じゃないから!っつーか学校で爆睡しすぎ!」
「………あ…?」
「あ?じゃない!ホラ起きて」
「………あれ、だー」


ようやく顔をあげる銀八。だるそうにあくびをして、額にじんわりかいた汗を袖で拭う。こんな暑い中寝てれば汗もかくだろう。


「おはようございます先生」
「おー」


目を擦りながら言う。…元気そうに見えていたけど、無理をしていただけなんだろうか。自業自得と言っても少しだけ心配になる。


「…飲みに行ったんだって?」
「あー、うん。高杉から聞いた?」
「うん。何時まで飲んでたの?高杉先生もかなり辛そうだったよ」
「何時までってお前、朝までに決まってんじゃん」
「朝まで!?」
「たりめーよ。飲むときはとことん飲む!それが俺の主義だ」
「そんな変な主義いらないから」


とことん飲んでこんなんなってたらどうしようもねーよ。ホント、ちょっとぐらい自重しろよ…。


「ま、いーや。とりあえずこれ。高杉先生が渡してくれって」
「おーサンキュー。俺これがないと帰れねーからさ」
「帰らない方がいいんじゃないですか。居眠り運転で事故って死にますよ」
「バイクで居眠りって、そんな器用な真似できるかよ」
「…まァ、そうかもですけど」


でも眠かったら判断力が…とかってことは言ってもムダなんだろうと思ったので口に出さずにおいた。この人を心配し出したらきりがないというのもあるし…。



「あと、コレは言伝です。『浮かれたお前とは二度と飲まねェ』だって」
「あー?高杉からか?…なんだよアイツ」
「なんか相当めんどくさかったんじゃないですか。でも高杉先生は優しいんでなんだかんだ言っても付き合ってくれると思います」
「そうじゃなくてよ…あー、絶対イヤミだコレ」
「イヤミ?」


コノヤロー、とか言いながら頭をぼりぼり掻く銀八。…でも私の言葉に答える様子はなかったので、黙って隣に立っていた。すると、ちらとこちらに視線をくれる。


「…浮かれてた理由とかは聞かないでね」
「え…」


聞こうと思ってたのに。聞かないでなんていわれると思わなくて、…そこになんとなく距離を感じた。


「はい…」


好きな人から連絡でも入ったんだろうか。それとも付き合い始めた?いろんなことを考えても、聞くことが許されない以上答えは出ない。…胸が、ずきずきと痛んだ。


「…じゃあ、私帰りますから」


そういって銀八に背を向けた。…顔を見ているだけで、胸が痛かったから。でも銀八はなぜか私の腕を掴んで引きとめる。


「待て待て。どうせなら一緒に帰ろうぜ」
「一緒にって…私チャリですけど」
「二人で押して帰ればいいじゃん。な?」
「……ま、いいですけど」


断るような理由もないし。顔を見るのは辛いけど、一緒にいたいのも本音だから。銀八はよし、といって立ち上がると、椅子の上に白衣を脱いでグチャグチャに置いた。用意するから待ってろと言って、向こうのソファに放ってあった上着を手に取る。多少しわになっていたけどまったく気にしていないようだ。私は白衣をきれいに畳みながらそれを見ていた。


机の上の紙とか筆記用具とかを無造作にカバンに突っ込む。…ホントに無造作に。っつーか無造作すぎだろ。ヘアは無造作でいいかもしれないけどかばんの中身が無造作なのはいただけない。ていうか何入ってるかわかんないじゃん。


「もっとキレイに入れなよ。待ってるから」
「ばっか!男として女を待たせるわけにはいかねーだろ!」
「なんですかそれ。デートの約束じゃないんだから」
「いいんだよ。はい終わったぞ」


言いながら銀八が出口に向かうので、私は白衣を机の上にきれいに置いた。ドアをくぐって廊下に出ると、銀八がポケットから鍵を取り出して閉め、その鍵はまたポケットに戻す。


「その鍵って返したりしなくていいんですか?」
「いいんだよ、俺しか使ってねーから」
「だからアンタの部屋じゃないって」
「だから俺の部屋みたいなもんなんだって」


まだ眠いのか、前を見たまま大あくびをする。…口を押さえるとかなんかないのかと思ったけど、この人だからそんなものあるわけないと思い直した。


その後は一階でいったん別れて、靴を履いて自転車置き場で合流した。ちなみに銀八のバイクはいつも自転車置き場に置いてあって、校内にはほかにバイクを使う先生がいないのでちょっとした目印みたいになっている。


そんなバイクと私の自転車を押しながら、二人で歩き出す。…それにしても、銀八は私の家の方向とか知っていたんだろうか?私は下校中に何度か見たことがあるから知ってたけど…。


「そういやさァ」


今まで黙っていた銀八が、唐突にそう言葉を始めた。


「なんですか」
「お前、高杉と仲良いよな」
「……まァ、そうですね」


まァ私たち仲良いよね、なんて言っても絶対否定されるけど。


「結構不思議だったんだよなァ。なんで?」
「なんでって…」
「アイツって人付き合い面倒くせーって方だろ?そんな奴をどうやって落としたのかと」
「落としたって、別にそんなんじゃないけど」
「知ってっけどよ。…なァ、なんで?」


信号待ちで止まると、顔をのぞき込んで来た。…改めてなんで、と言われても、ちょっと困るんですけど…。


「えーっと…多分…似てるから、かなァ」
「似てる…お前らが?」
「うん。…ひねくれてるとことか口悪いとことか…。あと…先生も私も、親いないし」
「……え?」
「あー、知らないよねやっぱ。…私、高校入ってからずっと一人暮らしなんだ。…だから今親いないの」
「………」
「だからなんか…同じにおいがする、みたいな?」


孤独なにおい。…みんなでいても、心のどこかはいつも満たされない…そんなにおい。…でも、そんな闇に惹かれて人は集まって来る。…高杉先生は、そんな不思議な魅力を持っている気がする。私にはそんなものはないけれど、時々見せる表情に昔の自分が見えることがある。


銀八は、ただ黙って何かを考えていた。その心は読めないけれど、いつになく真剣なのはわかる。


「……ねェ」


いたたまれなくて、自分から話を振った。


「銀八の親は…?」


…銀八も、先生と同じにおいがする気がする。心の底に言い知れぬ闇を抱えているような、そんな気がする。


信号は、とっくに青になっていた。それでも銀八が進まないので黙って隣りに立っていると、車が一台だけ静かに通り過ぎた。


「…俺もいねーよ。…親」



といって、また歩き始める銀八。私はそれを横目で見つめたまま、少し後ろをゆっくりと歩いた。


まずいことを聞いたんだろうかと思った。銀八があまりにも何も言わないから。…だから、それ以上何も喋れなかった。どうしていいのかわからなくて、視線を自分の足へと落とした。


こんなことなら聞かなきゃよかった、そう後悔するけど、もう遅い。


もう何度、こうして後悔を重ねただろうか。


「…あ、俺コッチ」


交差点で立ち止まると、そう言って右の道を指差した。


「私コッチだ」
「そっか。…じゃ、ここまでだな」
「うん」


二人それぞれバイクと自転車に跨がった。…このまま別れるのはいやだ。そう思うけど、何を言っていいのかわからない。


「…さよなら」
「…じゃあな」


呟いて、エンジンをかける。どうしてか先に帰る気に離れなくてそれを黙って見ている。…すると、銀八は私を振り向いて、ゆっくりと手を伸ばして来る。…その手が、ゆっくりと私の頭に触れた。


「俺、今度お前ん家いくわ」
「……え?」
「家庭訪問」
「…親いないから意味ないよ」
「ばっか。親いないからこそ心配なんだろうが」
「そうかな」
「そうだろ。…例えばまたストーカーついてたりよォ」
「ないと思うけどなー」
「例えばって言ったろ。…とにかくなんかあったら俺が助けてやるからよォ」


温かい手が、優しく頭を撫でる。あやすようでも慈しむようでもあるその手つきに、不覚にも涙が出そうになった。それは久しぶりに人の温もりに触れたからだろうか。…よくわからないけれど、気持ちが心の奥底から溢れてくる、そんな感覚が襲った。


「なんかあったら、俺に言えよ」


息が詰まって、言葉が出てこなかった。精一杯一度大きく頷くと、銀八は満足したように笑ってそっと手を離す。…温もりが遠ざかることが寂しくて、私は思わず顔を上げた。拍子に目の端から涙が零れ落ちる。


「…なんで泣くんだよ」
「わかんない…」
「変な奴。…ま、俺もだけどな」
「……知ってる」
「オイ、そこはそんなことないよっていうとこだろーが」
「…あはは、そんなことないよ」
「今さら遅いっつーの」


そういって銀八が笑うので、私も釣られて笑った。銀八の目が、優しく細められている。


「ありがとう」


口をついたお礼の言葉は、ありふれた言葉。気の聞いた言葉なんて言えないけど、銀八はそれでも笑ってくれた。


沈みかけの夕日が、長い長い影を映していた。









2008.10.01 wednesday From aki mikami.