部活が終ってコートを出たとき、教室に忘れ物をしたことに気が付いた。明日の英語の宿題だ。少しでも学校でやってしまいたくて、机の中に入れっぱなしにしていたんだった。
私は駆け足で教室に戻ると、自分の机の中にあるワークとノートを鞄に突っ込んだ。
教室はもう薄暗い。空は青っぽくて、もうすぐ濃紺へと変わろうとしている。時計を見ると、8時をすこしまわったところだろうか。そう思ったら、ふと野球部のことを思い出した。たしか、9時までやっていたはず。道路の向こう側のグラウンドに目を凝らすけど、こんなに暗くてはまさか見えるはずはなかった。わかりきってい たことだから、別にがっかりはしない。
机の上に放置していた鞄を持って、教室を出ようかと思った…が、瞬間。
廊下の向うから、小さく足音が聞こえてくる。しかも、少しずつこっちに近づいてきてるような…え、え?まさか、ここにくる?えっ…ままま、まさかっ、そんな。き、きっと警備の人、だよね?足がガクガクするのをごまかして、きつく手を握った。
やっぱり、こっちに近づいてくる。どうして?
そんなことを考えている余裕なんてなかった。だって、ユーレイだったら…!
ガラッ
「ぎゃああぁ!」
ドアが勢い良く空いた瞬間、可愛くない声を出して頭を抱え込んだ。
「…?」
名前を呼ばれて驚いた。だって、この声…
「あ、阿部くん…?」
練習用のユニフォームを着ている、明らかに部活中だった阿部くん。なんでこんな所にって、そう思ったのは向うも同じみたいなのか、どうしたんだ、とたずねてきた。
「あ…英語の宿題取りに」
「あー…いや、そっちもだけど…いま、叫んでたから」
「え?あ、あぁ。…それはただびっくりしちゃって。ユーレイかもっておもったし」
「は…ユーレイ?」
「あ、今ばかだとおもったでしょう?」
「信じてねぇしな、そういうの」
「いや、いるかもしれないよ?いてほしくないけど!」
私の言葉に、阿部君は少し笑って意味不明、と言った。馬鹿にしてるんじゃなくて、楽しんで笑ってくれてる…と、思う。
「阿部君は?どうしたの部活抜け出して」
「お前と同じ理由。宿題忘れ」
自分の机の中からワークを取り出して、チラリと私に見せた。忘れ物、なんて阿部君のイメージに合わなくて、思わず吹き出す。阿部君は不満そうに顔を顰めた。
こうやってたくさんしゃべれるなんて、以前から考えれば奇跡に近い。同じ委員会にならなかったら、田島君が図書室で、声かけてくれなかったら…
「あっ…」
考えていたら、思い出した。田島君が言っていたこと。
『そりゃ知ってるよ!阿部のアイドルだからね!』
「あ、あの…阿部くん…」
「何?」
「こないだ…の、田島くんの…」
「え?…あぁっ、あれか!ちょ、お前それ忘れていいから!」
「へ?」
「あいつ言い方がおかしいんだよ!アイドルなんて言ったらまるで憧れだろ!」
「えっと…あ、阿部くん?」
慌てている阿部君。けど、なんだかすぐに落ち着いたみたいで…でも、こっちに向けられた視線がなんか変で。どうしたの?何て聞けないから、じっと阿部君を見る。…自然と、見つめあう形になった。
「…憧れなんかじゃ、ないんだ」
そんな風に言った声は、すごく真剣で。
「…憧れなんてもんじゃ、なくて」
もしかして。そんな思いが頭をよぎる。
「―――…好き、なんだ」
もしか、しちゃった。
阿部君の言葉に、私は茫然とするしかなかった。だって…阿部君が私を、好き?…ありえない。でも本人が言ってるし…
「ほ…本当?」
「本当だよ!こんな嘘ついてどーすんだよ!」
「ど…どっきり、とか…」
「に仕掛けるくらいなら花井とか…もっと別のやつにやるよ」
はあぁ、と大きくため息をついて、近くの机に座り込む阿部くん。
「………返事、くれよ」
「え?」
「だから!返事だよ返事!」
「う、うん…あ、で、でもさ、そっ…その前に…さ」
「なに」
「…なんで私のこと…その………好きになってくれたの…?」
「〜〜〜〜〜っ!」
顔を赤くして目を逸す阿部くん。すごく恥ずかしそうだけど…一応教えてくれるらしい。
「俺のばーちゃんがさ、いっつも言うんだよ。人間にとって大切な言葉は3つだって」
「3つ?」
「『おはよう』『ごめん』『ありがとう』。それが…キレイ、ってか…なんつーか…」
「キ…レイ…?」
「そ、そんな感じ…」
帽子を脱いで、ガジガジと頭をかく阿部くん。その姿がなんだかかわいくて、うれしくなって…私は、駆け出して阿部くんに抱き付いた。
「わっ…!」
「もう一つ、言わせて?」
「もう一つ…?」
「うん」
阿部くんが言った3つの他に、もう一つ。…私は、深呼吸をしてから、出来るだけ気持ちを込めて、言った。
「大好き」
2007.06.22 friday From aki mikami.