昼休み、俺は生徒会室にいた。昨日少しだけやり残した書類作成をやり終えて、今日明日中に配布しなければいけないからだ。内容は「体育祭についてのアンケート」。今時期、一番忙しい活動内容の一つだ。体育祭までまだ日にちはあるが、早めに取り組むに越したことはない。昼休みにはテニス部員が自主練習しているはずだが、大石や他の3年もそろっているだろうから、俺が行かずとも問題はない。
そういうわけで、ここ最近の昼休みは生徒会の仕事をする時間に当てさせてもらっている。俺一人でもこなせる量なので、他の生徒会メンバーには特に知らせていない。
コピーが終わった紙を机の上において、棚からホチキスをとってきて椅子に座った。三枚の書類をホチキス止めしたものを、体育委員の人数分作れば、今日の仕事は終わりだ。
一枚目の書類に手を伸ばしたところで、突然生徒会室のドアが開いた。振り返るとそこには、怒ったような顔をしたの姿。
「…なんで昼休みまで働いてるのよ、手塚」
そう言ってドアを閉めると、俺の隣まで歩み寄ってくる。この時間にが生徒会室に来るなんて初めてだったので、少し驚いた。
「俺は体育祭の書類を作っている。こそどうかしたか?」
「あんたがおせっかいにも貸してくれた辞書、返しに来たの!」
そういうと、カバンの中から辞書を取り出して机の上に置いた。その間も、「教室まで行ってもいないからあちこち探し回っちゃった」と文句を言っている。
「そうか、わざわざすまない。役に立ったか?」
「えーえー、そりゃあもう。とっても役に立ちました!ありがとうございます!」
やはりむすっとした表情でそういうと、俺の隣の椅子に腰掛ける。用事が終わったらすぐに出ていくものだと思っていたので、彼女のその行動にまた少し驚いた。
はスカートの裾を少し直す仕草をした後、手を伸ばして棚からホチキスを掴んで、さっきコピーしてきた書類の山に手を伸ばす。そして何も言わずに、書類をパチンとホチキス止めして、また次の書類に手を伸ばす。
…これは、どうやら手伝ってくれるようだ。彼女の顔をじっと見ていると、眉を釣り上げたまま口を開いた。
「こういうの、あんた一人の仕事じゃないでしょ。ちゃんと私たちに任せてよ」
「だが、みんなを呼ぶほどの量でも…」
「そうだとしてもよ。あんた一人に仕事されちゃ、私たちの仕事がなくなるじゃない。…それじゃ、意味ないのよ」
最後の方はほとんど聞き取れないような小さな声で言って、なぜだか悲しそうに目を伏せた。その姿を見て、不二や菊丸の言葉を思い出す。
俺に負担をかけないようにしているというのは、つまりこういうことなのだろうか。
「…わかった。次からは、に声をかける」
「…ん」
そうが短く答えると、室内に沈黙が降りてくる。だがそれは、気まずい沈黙ではない、どこか心地よい静寂だった。二人分のホチキスの音、少し遠くで聞こえる他生徒の声、時折横切る足音。それら全てが、この空間を心地よいものにしているような気がした。
と二人きりで、こんな風に穏やかにいられるのは久しぶりだ。そう思うと、このまま終わってしまうのはもったいない気がして、何か話題はないだろうかと思考を巡らせた。…だが、が喜びそうな話題もこれと言って思い付かず、部屋の中に何かないだろうかと視線だけで室内を探してみると、ふと机の上の辞書に何かが挟まっているのが目に入った。
さっき返してもらった俺の辞書だが、俺は辞書に何かを挟んだ覚えはない。持っていたホチキスを机に置いて、挟まっている箇所をめくると、折り畳んだノートが一枚挟んであった。
それは、が俺のために入れたものだった。そうわかったのは、折り畳まれたノートの表面に、水色のボールペンで「今日のお礼。予習にでも使って」と書かれていたからだ。
その文字を見つけた瞬間、の手が素早くこちらに伸びてきて、バチンと音がなるほど強く辞書を閉じられた。…紙と一緒に俺の手も挟まれた。
「…少し痛いんだが」
「それはごめん。でも今は見ないで」
「なぜだ?俺のために用意してくれたんだろう」
「手塚のためじゃなくて、お礼だってば!」
「どちらにしても、俺のためだ」
「っ…」
俺の言葉に、は悔しそうな顔で押し黙ってしまった。…せっかくいい雰囲気だと思っていたのだが、また余計なことを言ってしまったのだろうか。
「…すまない」
「な、なんで謝るの…!」
「理由はわからないが、不快な思いをさせてしまったようだ」
「ふ、不快とかじゃない!」
ムッとしたようにそういうと、再び押し黙って、俯いてしまう。どちらにしても楽しそうな表情ではないので、やはり俺には、彼女を笑わせたり楽しませたりすることはできないのだろうか。そう思うと落胆する気持ちが湧いてきて、仕方なしに作業に戻ろうとしたとき、が静かに口を開いた。
「不快とかじゃ、なくて…恥ずかしいの…」
その声は、今にも消えてしまいそうな小さな声だったが、はっきりと俺の耳に届いた。…つまり、この紙をこの場で開かれるのが恥ずかしくてつい怒ってしまった、ということでいいのだろうか。の顔を覗き見ると耳まで真っ赤に染まっていたので、俺の考えが当たっていることがわかった。
「はねぇ、手塚のこと大好きだから、心配掛けたくないの!」
急に菊丸の言葉を思い出して、自分まで顔が熱くなっていくのがわかった。あるいは、彼女につられてしまったのかもしれない。こんな風に彼女の優しさに触れることになろうとは、思いもしなかった。
俺は紙を辞書から抜き出して、ポケットにしまった。それから、できるだけ平静を装ってホチキスを持ち直す。情けないことに手が滑って取り落としそうになったが、俯いたままのにはきっと気付かれなかっただろう。
「…帰ったら、見させてもらう」
そういうと、は小さく「うん」と頷いた後、静かに作業を再開した。…あまりに静かなので、心臓の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
そのまま作業が終わるまで、二人とも何も喋らなかった。気まずさとも心地よさとも違う沈黙が、作業が終わるまで続いた。