二人の距離は、3cm。

Scene 9


二人でやってきたのは、近くの公園だった。二面あるテニスコートでは、丁度大学生らしい人たちが試合形式でラリーを楽しんでいる。そのコートの半面が木陰から見える、少し離れたベンチに、俺たちは座っていた。


先ほどから、は俯いている。その姿は落ち込んでいるようにも、迷っているようにも見えて、俺の方から声をかけるのは躊躇われた。


「…聞いて、くれる?」


少し震えた声で、が口を開く。膝に乗せられた拳が、グッと強く握り締められたのが目に入った。


「これから話すこと、聞いてくれる?」
「当然だ」


繰り返された問いに、頷いた。するとは、俺の方を振り返って、わずかに微笑んで、また俯く。こんな風に言い淀むほどに言いたくない事を、が話してくれるなんて…これまでは想像もできなかった。それだけ、俺のことを信頼して貰えたということなのだろうか。


「私が…先輩に虐められてたの、聞いたんだよね?」
「あぁ」
「そっか。…じゃあ、虐められてた理由は、聞いたかな?」
「いや…それは聞いてない」
「…私ね。入ったとき、あの中の誰よりも強かったんだ」


それを聞いた瞬間、やっぱりと思った。はもしかして、俺に似た境遇だったんじゃないかと、直感的に思っていた。


「私、いつも先輩と試合する時、手加減してた。私なりに先輩たちに気を使ってたつもりだったんだよね。今考えたらやなやつだなって思うけど」


泣きそうな顔で笑って、一度ふぅとため息をついた。俺に語って聞かせながら、当時のことを思い出しているんだろう。


「…先輩たちに、いじめられて…逃げる途中、階段から落ちて…腕を骨折して…治るまでの間ずっと、部活に怖くて通えなかった。ケガが治っても、ブランクとか、恐怖とか、そういうもので、思ったように体が動かなくて…先輩たちには、元々素質がなかったんだって、言われて」


の拳の上に、ぽたりと雫が落ちたのが見えた。


俺だって、あのとき部活をやめていたはずだった。大石がとめてくれなかったら…大和部長がいなかったら…


俺は今、色々な人に支えられて、こうして部活を続けていられるし、部長でいられる。


「…の気持ちは、良くわかる」
「手塚…」
「俺も…お前と似たようなことがあった。そのとき、…大石が止めてくれなかったら、俺はテニス部を辞めていた」
「…知ってる、全部」
「え?」


意外な言葉だと思っていると、が袖で軽く涙を拭ったので、俺はポケットからハンカチを出してに差し出した。はそれを受け取りながら、小さく鼻を啜る。


「全部知ってるよ。…だから私、あんたのこと嫌いだったの」
「…どういう、ことだ?」
「私の気持ちを一番わかってくれるはずの人が、…私から、一番遠いから」


そう言って、は立ちあがる。夕暮れの空を仰いで、目を細めて、それから俺を振り向いて、笑った。


「私って、素直じゃないからさ!」
「知っている」
「なーんかそういわれるとすっごく腹立つけど。…不二から手塚の話を聞いたとき、もしかしたらあんたは、私のことをわかってくれるかもしれないと思った。でも、あんたは私と全然違う。…今も変わらずにテニスをしている手塚を妬ましかったし、悔しかった。…それに、ものすごく、近づきたいと思った」
「え…?」
「私も手塚みたいになりたい、手塚に見合う人間になりたい、手塚のことを支えたい…そんな感じ」
…」
「なんでもいいから、手塚に並べるようになりたくて…勉強も生徒会も必死でやって、テニスもまた始めて…でも、やっぱり妬ましい気持ちもあったりして、なんかうまく話せなくて…それに、手塚はやたらと優しすぎるから…嬉しかったけど、私はやっぱり手塚のようにはなれないのかなって思って、すごく腹立たしかった」


今なら、がいっていた、「自分が比べる」という言葉の意味がわかる。自分自身と俺を比べて、劣等感を感じてしまうという意味だ。何も知らなかったとはいえ、そんな気持ちにさせていたことが申し訳なくて、無理のある笑みを浮かべるの腕を思わず掴んでいた。


「…手塚?」
「……そんな顔、するな」
「っ…」
は、凄いと思う。…自分の弱いところを、きちんと受け止めている」
「…そんなことない」
「ある」
「…だから、そういうところだってば。…手塚の…ばか」


の目には、涙が浮かんでいる。いつも強気な顔ばかりしていたが俺の前で泣いている。それは、彼女の本当の顔を見られたような気がして、不謹慎ではあるが、少し嬉しく思った。


「わかってる、…手塚はただ真っ直ぐで、思ったことを言っているだけだって」


そう言ってしゃくりあげるになんと言えばいいかわからなくて、言葉の代わりに頭を軽く撫でた。小さく肩が震えたが、嫌がる様子はなく、静かに目を閉じる


「テニス部には、もう戻らないのか」
「もう三年だし、今更だよ」
「なら、高校からでも…」
「…実はこの間親が来て、もっと頭のいい高校に行けって。それに、テニスも勉強の邪魔だからやめろって言われた」
「従うのか」
「…正直、迷ってた。けど、なんか吹っ切れた。…もうちょっと頑張って、この学校でテニス続けてみたい」


は顔をあげて、照れたように笑った。…俺はやっぱり、彼女が好きだ。自分の弱さを受け止めて、もがき苦しみながらも前に進んでいこうと努力する、彼女が。そして、そんな彼女のために少しでも、できることがあれば。


の、人にできるだけ頼らずに一人でなんでもしようとするところは、すごいと思うし、尊敬もしている。…でも、たまには周りに頼ることも、必要だと思う」
「…」
が、俺のことを支えたいと思ってくれたのと同じだ。俺のことも、頼って欲しい」
「…ありがとう」


そう言って、照れ臭そうに笑う彼女がものすごく愛おしく思えて、自然と彼女を腕に抱きしめていた。一瞬驚いたように息を止めただったが、嫌がったり、抵抗するような様子はなく、腕の中に収まってくれる。


「…どうしちゃったの、手塚。こんなことできるタイプだったの?」
「知らなかっただろうが、俺はずっとが好きなんだ」


俺の言葉に、今度こそが息止めたのがわかった。もしかしたら今度こそ拒絶されるのではないかと思ったが、今のところその様子はない。それどころか、俺の制服をグッと掴んで、胸に顔を埋めるようにして寄りかかってくる。


「…何それ、手塚趣味悪い」


消え入りそうな声でそう言った後、は静かに泣き始めた。泣いている理由はわからなかったが、きっと今は何も言わない方がいいのかもしれない。そう思って、ただ静かにの頭を撫でながら、泣き止むまでそうしていた。