Scene 12



しばらく走って辿り着いたのは、全然知らない公園だった。あそこの居酒屋にはよく行くけど、こんなところまで来たことないもん。…我武者羅に走ってきたから、道に迷ったかもしれない。でも、誰かに連絡したり、タクシーを呼んだりする気にはなれなかった。


そこは、とても広い公園だった。


八部咲きの桜の下で、花見客が楽しそうにお酒を楽しんでいる。私はそんな雰囲気を避けて、敷地内の小さな林の中に入った。


怖くないと言ったらうそになる。でも、あんな風に笑っている人達を見ているだけで、今はいやな気持ちになる。


…私はずっと、名前で呼んで欲しかったんだ。


萩間のことは萩間、野々宮のことは野々宮って、ちゃんと呼ぶくせに。私のことだけは君、なんて、代名詞使うんだから。浅葱さんと話すたびに不思議だと感じていたのは、もしかしたらこのせいだったのかもしれない。


ほんの些細な、下らないことだってわかってる。名前で呼ぼうがそうでなかろうが、二人がお互いに好きなら問題ないんだってわかってる。でも、私はそれじゃあダメだと感じてる。


私は大学生で、浅葱さんは社会人。私の立場が下で、浅葱さんの方が強いって言うのは、どうやってもかえられない事実。別に浅葱さんより優位に立ちたいんじゃないの。対等になりたいわけでもないの。下でもいいの。だって変えられないんだから。でも、私は、下に思っててもいいから、ちゃんと浅葱さんに好きでいて欲しい。他の人に目移りなんかしないで欲しい。私のこと愛してるって、ちゃんと示して欲しいの。


名前で呼ぶってことは、その人のことを、ちゃんとそこにいるんだって認識してること。それはどんな呼び方でもいいの。


さん、でも、、でも、ちゃん、でも、、でも。


浅葱さんの中にちゃんと私が存在してて、ちゃんと私のことを好きでいて、求めてくれてるって思えるの。


でも、君なんて呼ばれたって、それが私かどうかなんてわからないじゃない。…私じゃないほかの人を、心の中で見ているかもしれないじゃない。


考えすぎなことわかってる。わかってるけど。




自分の心の中がわかったら、すごくすごく、つらくなってきてしまった。


林の中は暗くて、辛うじて月明かりが見えるくらい。足もとがふらついて、転び駆ける。慌てて地面に片手をついて体を支えた。手についた落ち葉を払い落として、また歩き出す。


…向こう側に、一本だけ桜の木が見える。


そのまわりには、人はいなかった。丁度月明かりがスポットライトのように桜を照らし出している。


その桜を、ぼんやりと眺める。…そうしていると、少しずつ心が落ち着いていく気がする。


どうして私はここにいるんだろう。どうして逃げ出してきたんだろう。…どうして泣きそうになってるんだろう。名前で呼んで欲しいんなら、そういえばいいのに。みたいに、名前で呼んでくださいって、言えばいいのに。自分で何もいわないくせに、勝手に気づついて、勝手に悲しくなって…馬鹿みたい。


「…ちゃんと、言おう」


名前で呼んで、と、好きです、を。


私は意を決して、携帯電話を出した。…ありえない数の着信が来ている。…これも皆が心配してくれたから何だと思ったら、申しわけない反面嬉しくなって、少し笑ってしまった。


着信の中には、浅葱さんからのもある。…私はその番号をリダイヤルした。


…心臓が早鐘を打つ。2コール半で、聞きなれた声がした。


「浅葱さん…?」
『…今どこにいるんだ』


怒った声。多分、今までで一番。


「公園にいます。おっきい公園。…林の中の桜の木の下で、待ってます」
『え、ちょっ…』


何か言い掛けた浅葱さんの言葉も聞かず、私はすぐに電話を切った。強引だけど、今言わなかったらきっともういえないから。


…桜の木は、相変らず照らされている。うすピンクの花びらが、風に乗って流れていった。