突然の来訪


あんなことがあってから…


「…」
ちゃん…?」
「…」
ちゃん!」
「あっ!ご、ごめん、何っ?」
「どうしたのちゃん、さっきから殺生丸様の方ずっと見て」


あんなことがあってから、―――は、殺生丸を意識せざるを得ないわけで。


まるで夢の中にいるような、ふわふわした、おぼつかない足取り。


はまだ、先日の口付けが、現実のようには思えなかった。何の予告も無かったからかもしれない、彼にとっては気まぐれだったのかもしれない。…それでも、あんな事をされては気になってしまうのが乙女心と言うもの。ましてやそれが好きな男からであれば、尚更だった。


一方、殺生丸はと言うと、当然の異変に随分前に気づいている。そして当然そうなった原因もわかっていた。…だが、原因が分かるからこそ、何も言うことが出来ないでいる。鬱陶しくて、腹立たしく思っても、殺生丸から彼女に声を掛ける気には到底なれなかった。


今更、なぜあんなことをしたのかと後悔する。だが過ぎたことは取り消せないことくらい、殺生丸は良く分かっている。


歩みは止めずに、己の唇に触れる。確かに自分に備え付けられているそれは、あの一瞬だけはまるで他人のもののように思えた。


ただ軽く触れるだけの口付け。


それなのに、触れた瞬間のふっくらした感じを、少し乾いた様子を、今でも鮮明に思い出せた。


「(なんだ…この妙な感覚は)」


答えの出ない疑問。
それは今まで感じたことのない、殺生丸には全く抗体のない感情だった。毒で体が麻痺した時と似た感覚。だが不思議と、それに忌々しさを感じることはなかった。


いい加減、腹の立つ気持ち。だがそれとは裏腹に穏やかな気持ちが、確かに彼の中にある。そして、何に関してかも分からない満足感と不満感。


どうやっても交わらない、矛盾し続ける気持ちが、彼の中を染め上げていた。






とりんが歩き疲れた頃、朱く塗り替えられた西陽が美しく差し込む洞窟で、彼等は夜を明かす事にした。


包むような暖かさと花の匂いが、どこからか運ばれてくる。は透き通った風を感じながら、閉じていた目をゆっくりと開いた。


ちゃん、夜ご飯探しに行こう!」


りんが言って、の手を引いて歩き出す。はそんなりんに微笑むと軽く頷き、軽い足取りで森へと向かった。


殺生丸は、その後姿を目を細めて見送る。…を目で追っている自分に気づいて、誰にも気づかないほど小さく自嘲の笑みを浮かべた。


目で追っている、と言うのは、気になっていると言うことだ。
殺生丸はそう思う。
だが、今問題なのは「なぜ気になっているのか」と言うことだ。


今まで、一人のことをずっと、ましてや人間を見続けることなどなかった。彼の父にすら、尊敬の気持ちはあれど、気になって仕方無いと言うことはなかった。


なのに今、から目を離すことが、…自分の傍から離すことが、出来ない気がしている。感じたことのない感覚に戸惑い、だがそれでもやはり、不思議とその笑顔に心が安らいでいた。


安らぎだとか、そんな甘い物は自分にはないはず。殺生丸はそう思って、己の心の内を探した。


本当に無いのか?
今そう尋ねられると、「無い」と即答することが出来ない気がした。


あまりにも、考えることが多すぎる。…奈落のこと、のこと、…己のこと。


殺生丸は思考を停止させると、静かに立ちあがる。何の気なしに空を見上げると、そこには宵の明星が、小さいながらもまばゆい光を放っていた。






「いっぱい取れたねぇ、きのこ」


りんはそう言うと、すっかり満杯になったかごを抱えて嬉しそうに笑う。も同じように微笑むと、段々と見えてきた邪見の姿を見て、声を張った。


「ただいま、邪見!」
「遅いぞ」
「ごめんごめん」


いいながら、きのこや薬草の入ったかごを邪見に手渡す。邪見はぶつぶつと文句をたれながらもそれを受け取ると、あらかじめ用意していた串にさして焚火にくべた。りんは焚火の前にひざを折って座り、楽しそうに笑いながら邪見の背中を小突いている。


いつもの、平和な光景だ。


そう思ったが、ふといつもと違うことに気がついて、それを素直に声に出した。


「…殺生丸は?」


ぐるりとあたりを見回すが、それらしい姿はない。当然、気配も感じられない。


邪見は驚いたように、えっ!と声を上げて、と同様に周囲に視線を走らせたが、主の姿を捕らえることは出来ない。


やがて主が姿を消したことがわかると、落胆の表情を浮かべてつぶやいた。


「殺生丸様…また邪見を置いて、どこかへ行かれたのですね…」
「あ…まあまあ、いつものことだし…そのうち戻ってくるよ」


この世の終わりでも来たように沈み込む邪見があまりに不憫で、は気休めにもならないと自覚しながらもそんな言葉を吐いて、ぽん、と邪見の頭を叩いた。


「お前に殺生丸さまの何がわかる!そんな言葉、気休めにもならんわ!」
「あ、…うん、そうだよね、ごめん」
「あああああ、わしは殺生丸さまの従者なのに…、従者なのに!」
「もう、邪見さま落ち着いて」
「やかましいりん!大体お前が来てから殺生丸様がわしに冷たくなって…!」
「ちょ、ちょっと待って邪見、落ち着いてよ。ほら…、あの、私探してくるからさ!」


言ってしまってから、しまったと思った。目を合わせることも恥ずかしいのに、直接話すなんてこと、今の自分に出来るのか?いいや、出来るはずが無い。はそう思ったが、言ってしまった言葉をすぐに訂正することははばかられた。だがこういうときの邪見の言葉は決まっている。必ず否定の言葉をいうはず。…そう思ったのだが。


「な!なぜお前が探しに行くのだ!」
「そ、そうだよねー… やっぱ、邪見が自分でいく?」
「なに言ってるの!邪見さまは焼く係りでしょ?」


思い通りにことが進んだ、そう思ったの期待は、りんの無情のひとことによって敢え無く打ち砕かれた。言葉だけならまだしも、りんは邪見の服の端をがっちり掴んで、強固な瞳でにらんでいる。…絶対に離さない、そういっている目だ。


普段笑っている人ほど、怒ると怖い。邪見は言い返す言葉もなく、結局に背を向けて 粗相の無い様に、とだけ言った。


「う…うん。……じゃ、行って、くるね」


行かざるを得ない。ましてや自分から提案したことだ。笑顔で手を振るりんと、未だぶーたれている邪見の後姿を振り返りながら、重い足取りで森の方へと歩いていく。殺生丸のことだ、大体は水辺か、見晴らしの良い所にいるのだろう。そう見当をつけ、複雑な気持ちをごまかすように足早にその場を後にした。






「…うそっ」


は彼の姿を見つけるなり、その意外な場所に驚きを隠せなかった。


「殺生丸が…木登り?」
「殴るぞ」
「だって…なんか意外で…」


殺生丸の居た場所、そこはこのあたりで一番の大木の、その中でも特に太くて長い枝の上だった。


意外とは言っても、殺生丸の跳躍力を考えればそこに登ることくらいわけないのだろうが、木登りといえば小さな子供の遊び、という先入観が、どうしてもその取り合わせをおかしなものに思わせる。


大体、犬ってそんなに跳躍力があっただろうか?うちの近所の犬は、そこまで高く飛べなかった気がするのに。…と、だんだんおかしな方向に思考が逸れているのに気づいたは、何とか思考を元に戻そうと、どうやって登ったの?と質問を投げかけた。だが言ってしまってから、あまりにくだらない質問だったことに気づいて、軽い自己嫌悪に陥る。なんて頭が悪いんだろう、そんなことを思ったそのとき。


ふわりと、身体が宙に浮かび上がった。正確には浮かび上がったと気づいたときには、すでに身体は先ほど殺生丸が腰掛けていた枝の上にある。ややしばらく呆然としていただったが、殺生丸が同じ体勢で腰を下ろしたのをみて、ようやく殺生丸が自分をここまで運んだのに気がつく。


「こうやって、だ」


呆けた表情のに嘲笑を浮かべながら、視線を夜空へ流す殺生丸。


「…お、降りてきた音もしなかったのに…」
「気配を消すなど造作も無い」
「なんで気配を消す必要があるのっ」
「やかましい。…座れ」


の小さな抵抗も虚しくかわされ、彼に腕を引かれる形で彼の隣に腰を下ろす。頬が赤くなったりくやしかったり、いろんな感情がないまぜになって、酷く頭の回転が鈍った。


「ばかっ。びっくりするでしょっ」
「顔が赤いな」
「っ、もう!意地悪!」


このまま話していても、絶対に彼には勝てない。だからといって力で彼に勝てるわけも当然ないのだが、わかっていながらもは殺生丸の肩を何度もたたく。そんなこと、蚊に止まられた程度も気にしていない殺生丸にまた腹が立って、今度は少し強く肩をたたいた。


そんな余計な事をしたのがいけなかった。
その弾みにわずかに身体が傾き、頭が揺れた。気づいたときには遅く、何とか突っ張ろうとした腕も間に合わず、の身体は地面へ向かって倒れるように落ちようとする。


落ちる――― がそう思った瞬間、その右手が強く掴まれた。


殺生丸の右手が、を掴んでいるのだ。


殺生丸は、ゆっくりを引き上げた。はまるで釣り上げられた魚のような気分になったが、ここで抵抗しては更に余計な失態をさらしてしまう、そう思っておとなしくしていたら、彼はを枝の上に降ろし、…何事もなかったかのように、また同じ位置に座り込んだ。


助かった、そんな安堵感と共に、…それだけ?と、うっすら、不満のようなものを覚える。


だからといって何もいうこともなく、茫然とその場に立ち尽くし、殺生丸を見つめていると。


「…うつけが」


じろりと金の目がを捉えたかと思うと、先程と同じ右手を取られ、少し強引に引っぱられた。の身体は敢え無く崩れ落ち、…殺生丸のひざの上に、乗っかる形になってしまった。


「ちょ、ちょっと…」
「暴れるな」
「っ、でも!」
「また落ちるのか」
「…ごめん」


くやしい気持ちは強かったが、彼が言うことも正しい。行儀良く正座になって、おとなしく彼の膝の上に収まる。かなりの至近距離で向かい合っているため恥ずかしい気持ちも相当あったが、あんな醜態をさらした上、これ以上弱みは握られたくない。


出来るだけ彼の顔を見ないように、そんなことを考えるとは裏腹に余裕たっぷりの殺生丸は、腕を膝の横へとたれ、微かな嘲笑を浮かべながら再び夜空を眺めた。


「…ずるい」


思わず、また余計なひとことが出てしまった。だが殺生丸は気にした様子もなく、何がだ、といって、じっと空を眺めている。


「……分かってるくせに」


抵抗の変わりに、こぶしでぽん、と彼の胸板をたたく。まだ少し冷たい春の風が、二人の間をふわりと流れていった。


「…お前は」


ぽつりと、こぼすように、殺生丸がいう。春の風の中に、かき消えてしまいそうに。


少し怪訝そうに見上げるの目を見て、殺生丸は自覚した。…自分が今、「安らぎ」を覚えていること。


、…お前は…」


―――何故そんなにも、私を惑わす?


そう聞こうとした言葉は、半端な所で停止した。聞いても、意味が分からないとか、そんな事してないとか言われるだけなのが、はっきりわかるから。


「何?」


が小首を傾げて尋ねるが、殺生丸は目を細めたまま何も言わない。


と、そのとき。


「あらあら、おあついこと」


そんな声に木の下へ目を見やる。暗がりで見えにくいが、女のようだ。腰に二本の刀をさしている。…誰?とが思っていると、普段あまり動じない殺生丸が、珍しく驚いた様子で言った。


「…林檎」
「え?」


その言葉に、は彼を振り返る。だが殺生丸はそれを見ることなく、を抱えて木から下りると、女に歩み寄った。


その女は、随分と可愛らしかった。


髪は肩くらいまでの白銀。目は大きくて、微笑むとえくぼが出来る、印象的な顔。声はよりもずっと高く、透き通っている。


「この人…知り合い?」


恐る恐る尋ねる。殺生丸は少し言いよどんだようだったが、女はフッと柔らかく笑って、に向き直って言った。


「私は林檎。殺生丸の幼馴染みたいなものよ」
「…え…えぇっ!!!!」


の大きな声が、あたりに木霊した。



2005.02.16 wednesday From aki mikami.
2012.05.04 friday 加筆、修正。