幼馴染


幼馴染。
意味のないこととわかっていながらも、はその言葉を繰り返し頭の中で唱えていた。


目覚めは悪過ぎるほどだが、空気は皮肉にも嫌と言うほど澄んでいる。は目の前の川の水を手ですくい上げると、余計な考えを洗い流すつもりで顔を洗った。


昨晩は、あのまま林檎を連れりん達の所に戻った。邪見もりんも林檎とは初対面だったらしく、幼馴染という言葉に同様ひどく驚いていた。そしてそのまま林檎を囲んで夕食をとり、りんが質問攻めする形で、殺生丸と林檎の昔話を聞かされた。


ほとんどりんが質問し、林檎が喋り、殺生丸は適当に相槌を打っていただけだが、闘いのことや、殺生丸の父の話になると、ぽつりぽつりと漏らすように言葉を紡いでいた。…の頭には、話の半分も入ってこなかったが。


の目は、少し楽しそうな殺生丸の、普段ほとんど見ることがない表情ばかり捉えていた。そして、一夜明けた今も、それはなかなか消えない。恐らく林檎がいなくなるまで、ずっと消えることはないだろう。


…そう、林檎はまだ、ここにいるのだ。


近くに殺生丸の気配を感じたからとやって来たらしいが、「一晩一緒にいてもいい?」と言う彼女の言葉に、が「嫌だ」と言う理由も権利もない。結局は最大の作り笑顔で「うん」と答えてしまい、今に至る。


もう一度顔を洗うと、虚ろな目のままで水面に写った自分の顔を見る。


…うまく、笑えていただろうか。 ひとつ溜息をついてから、濡れた顔を着物の裾で拭った。


醜い考えは、無理やり打ち消してしまうに限る。幼馴染が来たからなんだ。自分とて旧友に会えば、同じような顔をするに違いない。


よし、とわざと声に出して、自分を落ち着けるよう努めた。


「おはよう、


突然声がかかって、は後ろを振り返る。そこには昨日と変わらず可愛らしい顔をした林檎が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。


…何度見ても、女ですら見惚れるほど可愛いと、は思った。


細くて外跳ねのふわふわした髪に、ふっくらした唇。細身の身体に、淡い桃色の着物はよく似合っていて、彼女の可愛さをさらに引き立てている。


「おはようございます、林檎さん」
「やだ、呼び捨てで良いよ。それより、…ごめんね、何か」
「えっ…えっと?」


謝罪されるようなことをされただろうか?戸惑ってしまい言葉につまる。だが林檎はそんなにくすっと笑うだけで、先に続く言葉はなかった。ゆっくりとの隣にやってきて、を真似るようにしゃがんで、川を眺める。


「ねぇ、一つ聞いても良い?」
「え、なに?」
の好きな花って何?」


何を聞かれるかと思いきや、あまりに突拍子もない質問に、はさらに戸惑ってしまった。それを聞いてなんになるのか…という疑問も湧いてきたが、もしかしたら、自分と仲良くなるためのきっかけを作ろうとしているのかもしれない。そうも思い直して、林檎の顔を見る。林檎はにこにこしながら返答を待っている。


視線は川に向けたままで言った。


「…桜、かなあ」
「桜?今丁度良い季節じゃない」
「うん」
「どうして桜が好きなの?」
「昔…一緒に暮らしてたおじいさんの家にね、綺麗な桜の木があったの。他の木より少し遅れて、大きな花を咲かせる桜が。その桜を見ながらご飯を食べるのが、毎年恒例だったんだ」
「…素敵な思い出が詰まってるから、好きなんだね」


優しい顔でを見つめる林檎に、は視線を合わせて頷いた。だが林檎はすぐに視線を川の方に流して、何故か少しさみし気に、素敵だね、と呟く。


なぜそんな顔をするのかわからなかった。何かまずいことでも言ったかと思ったが、思い当たるところはない。


仕方なく、林檎の好きな花は?と無難な返事を返す。


「私の好きな花?」
「うん」
「そうねー…彼岸花、かな」
「えっ…」


林檎の口から出た花の名を、は意外に思った。林檎ならばきっと、向日葵や鈴蘭や秋桜といった、可愛らしい花を選ぶと思っていたからだ。


「どこにでもある花なんだけどね…なんか、好きなのよね」


どこか儚げな表情を見せる林檎に、は聞かないほうが良かったかと後悔しつつも、複雑な気持ちで林檎を見つめた。
少し冷たい朝の風が、ゆっくりと二人の間を流れてゆく。


かける言葉が見つからないでいると、後ろをから砂利を踏む音が聞こえてきた。


、林檎」


呼び声が聞こえて、二人同時に振り返る。そこには、少し不機嫌そうな殺生丸が立っていた。


「あぁ、殺生丸」


林檎が立ち上がり、彼に歩み寄る。さっきまでの儚げな表情はなく、ぱっと笑顔で彼の隣に並ぶ。はそんな二人に、僅かに胸が痛むのを感じた。そんな意味のない嫉妬心を抱かないように、気合をいれたばかりだというのに。


「ごめん、ちょっとだけ殺生丸借りてくね」


自分の頬をぺちぺちと叩いていたに、林檎がそう声をかけた。意味を理解するのに一瞬の時間を要したが、つまりふたりで出かけてくる、という意味らしい。殺生丸の背を押して去ろうとしている。


は、また少し胸がきしむのを感じながらも、精一杯の笑顔で、いってらっしゃい、と告げた。ふたりの背中はすぐに見えなくなっていった。






「どうしよう…枝足りないよー…」


りんの目の前には、小盛りくらいに積まれた小枝。それを掴むと、今起こしたばかりの火の中へと放った。


あれから時は少しすぎて、とりんと邪見は遅い昼食をとろうとしているのだが。


「うーん…確かに足りないね…」


焚火にくべる小枝が、明らかに足りない。りんが枝を拾ってきた邪見にじろりと視線を向けたが、邪見は冷や汗をかきながら視線をそらす。邪見がいい加減なのはいつものことなので、二人とも特に文句はいわないが、やれやれとため息をつく。だが、ため息をついたところでこの状況が改善されるわけではない。


「私、もうちょっと探してくるね」


はいいながら立ち上がると、膝についた砂を軽く叩いた。


「…良いの?」
「うん。このままじゃどうしようもないしね」


じろり、と邪見に視線をやると、さっきよりも大量の冷や汗を流して口笛をふいていた。知らぬ存ぜぬの態度を貫くつもりらしい。


「ありがと!」
「いいのいいの!そのかわり火の番お願いね!」


軽く手をふってから、森の方へと駆け出した。


あれから数刻…殺生丸と林檎は、まだ帰っていない。どこに行ったのかもわからない。何かしていないと、余計なことを考えすぎて…気になって仕方なかった。


ある程度中まで入ってきたところで、しゃがみ込んで適当な枝を拾う。それを持ってきた籠に入れて…と繰り返していても、考えないようにしていても、振り払いきることができない自分に気づいて、は小さく溜息をついた。


これまで殺生丸が楽しそうにしていたことなど、あっただろうか。 黒くてドロッとした感情が、の中で渦巻く。


嫉妬。 そんな醜い考えを直視したくなくて、それでも襲ってくる波に、今にも潰されてしまいそうだった。


ぐっと胸を抑える。


なにも考えないように…その言葉を繰り返し頭の中で唱える。


そのとき。


「優しくなっちゃって」


ふいに聞こえた声に、はハッと顔を上げた。…自分に向けた言葉ではないが、はっきりと林檎の声が聞こえる。あたりに視線を巡らせた。


「こんな上等な着物作らせちゃって」


木の陰の、随分先。


ひときわ目立つ大木の根元に、林檎と殺生丸がいた。


殺生丸の手には、薄桃に白や紫の模様が入った着物。


「(…もしかして殺生丸が…林檎にあげたの?)」


そう思いながら、自分の着ている物を見る。同じ殺生丸にもらったものでも、先の叢雲牙との戦いでボロボロになり、肩には大穴が開いていた。


ちくりと胸が痛む。


「ちょっと殺生丸、協力したんだから貴方も私のお願い聞いてよ」


林檎が言いながら、殺生丸の腕を引いた。思わず身を隠し、その様子を見つめる。普段なら匂いで見つかる距離だろうが、幸いここは風下だ。おそらく正確な位置まではわからない。…が聞き耳を立てていることも、気づかれないだろう。…盗み聞き、という事実に、また胸がちくりとした。


殺生丸は溜息をついて、林檎に腕をひかれるまま向き直った。


「…またあれか」
「そう、またあれよ。…仕方ないでしょう」


そう言って、挑戦的な…しかし、どこかさみしげな笑みを浮かべる林檎。殺生丸はもう一度溜息をつくと、…強引に林檎の頬を包んで、引き寄せた。


「っ!」


ギリッと、強く締め付けられる胸。この先なんて見たくない、と、思っているのに。


少しずつ近づいていく、二人の顔。


殺生丸は、林檎の頬に、一つ 口付けを落とした。


ざっと強い風が、その場を吹き抜けてゆく。その風が止むのも待たず、はその場から逃げ出した。






唇を離した殺生丸は、不機嫌そうな顔をしていた。


「どうしたの、殺生丸…?」


林檎の質問に答えることなく、視線を森の奥へと走らせる殺生丸。その視線の先へ林檎も目をやると、そこには籠と、籠からこぼれたらしい小枝がちらばっていた。


「あれって…もしかして…」
「…」
「ね、ねぇ!もしかしてがいたんじゃないの?」
「…」


口を押さえて言う林檎に、殺生丸は怒りを隠さず眉を吊り上げる。


「ね、ねぇ、追いかけなくて良いの!?多分、傷ついて…!!」


林檎が言い終わるよりも早く、殺生丸は歩き出した。右手に持っていた着物を林檎へ押し付けて。


が傷ついたとか、泣いているとか、そんなことは殺生丸にはどうでもよかった。の感情がどう動こうが、知ったことではない。


それよりも、が無用な誤解をしているだろうことが、…誤解されてしまった事実が、腹立たしくて仕方なかった。 微かに匂いがしていた時点でやめておけば、とか、そんな後悔は、すべて怒りへとすげ変わる。


なぜ腹が立つのかは分からない。


とにかく今は彼女の誤解を解き、この怒りをおさめよう、そう思って、の匂いを辿り始めた。



2005.02.17 thursday from aki mikami.
2013.08.29 thursday 加筆、修正。