それでも、好き
一体どの位走ってきただろうか。ここはどこだったか。今の時間は。そんなこともわからないくらい、の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
ただただ走り続けた。…あの場から離れるためだけではない、先ほど見た映像を、脳内から切り離すために。
だが、そんなことで無くなるようなものならば、最初から涙を流したりもしないだろう。
実際はただ足が疲れただけで、あの光景は時が経てば立つほど、走れば走るだけ、嫌なくらい鮮明になっていった。
「(傷ついたなんて…思う権利ないのに…)」
自分は殺生丸にとって、なんら特別な存在ではないのだから。…そう思うたび、涙がこぼれてくる。自分の中の黒い感情も一緒に流れ出たらどんなに良いかとは思った。
林檎に嫉妬する気持ち。
殺生丸を恨みそうになってしまう感情。
そして、二人に置いていかれる恐怖。
最早自分の存在自体、必要ないものに思える。そして思い至った考えに、足が震えるほど絶望した。
「(私は殺生丸のこと…全然知らない)」
が知っているのは、一緒に旅をしだしてからの殺生丸。それも、極限られた一面でしかない。昔のこと、と言われて思い至るのは、せいぜい左腕を犬夜叉に取られたことくらいだった。
「(勝手に、自惚れてた…)」
近くにいすぎて。
足がもつれそうになって立ち止まってしまえば、もう立っていられなかった。膝を折って、その場に座る。もう走ることは出来ない。立ち上がる気力すら、絞り出すことが出来なかった。
渦巻き続ける黒い感情を、頭の中に押し戻す。それでも雪崩れてくる感情とのせめぎ合いで、身動きがとれない。
そんなとき、後方から草を揺らす音が聞こえてきた。涙で霞む虚ろな視界で、無理やり目を見開いて後ろを見やる。
「っ!」
そこには、数えることも出来ないほどの妖怪。
はぼんやりとした脳のままで、雨月刀を構えた。金切り声を立てて、襲ってくる妖怪達。餌を求めて牙を剥いている。
その瞬間の頭は自分でも驚くほど冷静になって、向かってくる妖怪たちを雨月刀で切り払っていった。
美しいほどの曲線を描く刃先。妖怪達は次々に地面に倒れる。斬って、また斬って、さらに斬って… にとってそれは、ただ視界をふさぐものをしりぞける、作業だった。
そんな斬ってはまた斬ってを繰り返していたとき、不意に雨月刀が脈を打ちはじめる。
突然のことには戸惑い、妖怪たちから一歩退くと、じっと雨月刀を見つめた。
なぜ、騒ぐのか。
近くになにがあるのだろうか?
そして、はたと思い出す。
「(…もしかして…殺生丸)」
雨月刀はもともと殺生丸の牙から作られたものだ。ならば、近くに殺生丸が来たことに反応して騒ぎ出してもおかしくない。
ズキリと痛む胸。
彼のことを思うだけで、の心はまるで鋭いものに斬りつけられたように痛かった。
はやくここから逃げなければ。そう思うのに、急に足が竦む。
今殺生丸にあって、なにをいえば?
ふたたびどす黒い感情が渦をまいて、の足にまとわりつく。
妖怪たちが、にとびかかってくるのが見える。見えるのに、足が、腕が、いうことをきかなかった。
「危ねぇ!!!」
もうやられる。そう覚悟した瞬間聞こえたのはそんな声。視界をふさいでいた妖怪たちがバラバラに砕け、地面に肉塊が転がる。は顔を上げて、声の主をみやった。
「犬夜叉…!」
「おぅ、。お前らしくねぇな」
未だ群がる妖怪たちを蹴散らしながら、やや険しい顔をつくる犬夜叉。
なぜ彼がここに?他のみんなは?…私らしいって、なに?
思うことはいくつもあったが、はただ、犬夜叉の剣で妖怪たちが転がっていく様を惚けたように見ているしかなかった。
「ちゃん…どうしてあそこにいたの?」
の顔を覗き込みながら、かごめが深刻な顔で尋ねる。だがは、答えることなく俯いていた。
「何かあったのかよ」
今度は犬夜叉が尋ねる。それでもやはり無口なまま、ズキズキする心の痛みを押さえていた。犬夜叉はそんなに苛立ちを隠せない。
「どうなんだよ、。まさか殺生丸の野郎に何かされたのか?」
びくっ。
殺生丸の名に、の肩が僅かに震える。ほとんど微かな動きだが、弥勒だけ、その微妙な反応に気がついてた。それにその反応を見ずとも、大方予想がついていたことだ。が単独行動をとるなど稀だ。いつも殺生丸一行の誰かがそばにいる。はぐれただけならこんな風に口を閉ざす必要はないし、殺生丸たちの身になにかあったのなら自分達に助けを求めるはずだ。
こんなふうに口を閉ざしていることが、自ら彼らから離れてきた何よりの証拠だった。
弥勒はその場に立ち上がると、犬夜叉と七宝の着物をつかんで捕まえた。
「何すんじゃい、弥勒!」
「我々は退散しましょう。そのほうが、様も話しやすいようですし。…さ、行きますよ」
「あぁ?んだよそれ」
「良いから行きますよ」
抵抗する犬夜叉を引きずりながら、その場を後にする。…一瞬だけと目を合わせて、柔らかく微笑んでから。
「法師様…気を利かせてくれたんだね」
彼らが去って少ししたところで珊瑚が言って、をチラリと見やった。
「ちゃん…あたし達に事情、話してくれないかな」
「…」
かごめと珊瑚も当然、その事情が殺生丸がらみなことは気づいていた。もっともそれは、弥勒の様に冷静な分析に基づくものではなく、いわゆる「女の勘」というやつだが。
かごめの言葉に、は黙って頷く。
口を開くのも億劫な気持ちを抑えて、ゆっくりと話し始めた。
「殺生丸の…幼馴染がね、来たの」
「幼馴染?」
「そう。…凄く可愛くて、妖怪で…殺生丸と、すごく仲が良くて」
二人の楽しそうに話す姿が思い出されて、胸がざらざらした。
「今朝、二人で出かけていったの。しばらく帰ってこなくて、待ってたんだけど、焚き火するのに、私がたまたま森に入ったら、二人がいて…こっそり見てたの…」
少々話の飛ぶ所があったが、かごめは頷いてを見る。
珊瑚も同じようにして、軽く首を縦に振った。
「そし、たら…殺生丸が…その子の頬に…くっ… っ」
口づけしてた。
その短い言葉をいい終える前に、堪え切れずこぼれる涙。その先が語られることはなかったが、かごめにも珊瑚にも、の言葉の続きは分かっていた。
「それで…逃げてきちゃったんだね」
珊瑚の言葉に何度も頷く。そう、は逃げてきたのだ。現実と、向き合うことを恐れて。
「わかってるの。私は殺生丸にとって、ただ霊力があって、便利で、何となく同行させてるだけの人間だって。でも…あの人が優しすぎるから…自惚れてたの」
「ちゃん…」
「心のどこかで、二人を堪らなく憎く思ってる気がするの。林檎のことも、殺生丸の、ことも」
すんとはなを鳴らしながら、は涙を拭う。かごめと珊瑚に話をしながら、の中には一つの答えのようなものが湧き上がっていた。とても漠然としているが、変えられない気持ち。
「でも…でもね…」
素直な気持ち。それはいつだって、変わらない気持ち。
「それでもあの人が…殺生丸が好きなの!」
とうとうわぁっと、声を上げて泣き出した。かごめはゆっくりとに近づくと、優しくその身体を抱きしめ、頭を撫でた。
「ちゃんの気持ち、凄く分かる。あたしも桔梗に、やきもち妬いちゃうもん」
「…え?」
「犬夜叉は桔梗が好きで…ずっと好きで…。悔しいけど、仕方ないもんね。私が犬夜叉を嫌いになれる訳ないし」
穏やかに言うかごめ。その言葉ひとつひとつは、きっと自分に言い聞かせているのだろう。そんなことを、は思う。…は、自分の弱さを恥じた。自分と同じ気持ちを抱えているかごめが、こんなに強く、凛としているというのに、自分は何をしているのかと。
かごめがゆっくりとを離す。その強い瞳には、微かな憂いが混じっていた。
「ねぇ、ちゃん。今日は泊まって行かない?楓ばあちゃんの家だけど、頼んだら良いって言ってくれると思うのよ」
「…え?」
「そうだね。それにちゃんも…帰りづらいだろ?」
珊瑚が優しく笑う。…本当に、甘えてもいいんだろうか。そんな風に思いながらも、引きずられていく気持ちを止めることは出来なくて。
「…お願いします」
そう答えていた。かごめも珊瑚も、嫌な顔ひとつせずに微笑んでいた。
「遅ぇなぁ、達。まだ終んねぇのかよ」
苛立ちを隠す風もなく、犬夜叉が言う。弥勒はそれに苦笑しつつも、もう少し待ちましょう、と言って空を仰ぐ。
「は大丈夫かのぅ」
犬夜叉と違い、薄々事情に勘付いている七宝は、犬夜叉とかごめのやりとりなんかを思い出していた。自分の経験ではないが、かごめの辛い顔を何度も見てきている。
弥勒は空を仰いだまま、膝に乗った七宝の頭をぽん、と叩いた。
「大丈夫でしょう。様は、強い方ですから」
そう言ってから、あまり良い言い方ではなかったかと思い直す弥勒。
弱いことは、悪いことではない。人は弱いからこそ成長出来るのだ。…はじめから強い人間などいない。人は少しずつ、強くなっていくものだ。
そんなことを考えていると、突然犬夜叉が立ち上がって、鉄砕牙に手をかけた。妖気を逆立て、森の奥に鋭い目を向けている。
「…犬夜叉?」
七宝が恐る恐る尋ねる。奈落でも出たのかと思ったが、それならばすぐに駆け出しているはずだ。弥勒は犬夜叉の視線の先に目を凝らした。
木々の隙間から、銀色が揺れながら近づいてくる。月が満ちるような、静かな歩みは。
「…殺生丸」
現れた人物、殺生丸は、犬夜叉の姿をとめ、わずかに目を細めた。 だが、特に気にかける様子もなくすぐに視線をはずし、ぐるりとあたりを見回して、言った。
「…を出せ」
「なら楓ばばぁの家にいるぜ」
鉄砕牙を構えたまま、警戒を露わにする犬夜叉。だが殺生丸はそれをいにも介さず、彼の前を通り過ぎようとした。
「お待ちなさい」
殺生丸の行動を先読みした弥勒が彼を呼び止める。その声に彼は足を止めると、振り向かないまま聞いた。
「なんだ」
「一日、様をそっとしておいてください」
「なんの権利があってそのようなことをほざく」
「あなた達に何があったかは知りません。ですが、様は今、あなたのことで泣いているのでしょう」
「…だからなんだ」
「様には、心を整理する時間が必要です。それに、あなたにも」
殺生丸の脳裏に、泣いているの顔が浮かんだ。その顔を自分がさせているのだと思うと、怒りに似た感情がわきあがる。何に怒りを覚えるのかは、…わからなかった。
「に何かあったら…殺すぞ」
「ご心配なく。私どもがお守りします」
弥勒が穏やかな顔で笑う。そんな笑顔を向けられることに居心地の悪さを覚え、殺生丸はなにも答えずに身を翻して森の中へと消えた。
2005.02.18 friday from aki mikami.
2013.09.11 wednesday 加筆、修正。