滴る雨


「ねぇ、ちゃん」


女三人で布団を広げ、これから寝ようと言うときに、かごめがに声をかけた。


「なに?かごめちゃん」
「あのね、明日、ちょっとだけあたしに付き合ってくれない?」
「…え?」


突然のかごめの提案に、は目を丸くしてかごめの顔をみた。


「付き合うって…お出かけするってこと…?」
「そう!すぐに殺生丸のところに帰るのも、辛いんじゃないかなって思うし…いい気晴らしになるかなって!」


かごめの提案に、は複雑な気持ちになった。もちろん、気遣いがうれしくないわけではない。だが、殺生丸はともかく、りんはきっと心配するに違いないし、邪見にはお前のせいで殺生丸様の旅に支障が出ると文句を言われそうだ。…ただ、帰りたくないのも事実。


うまく言葉を紡げないの気持ちがわかったのか、かごめはやさしく微笑みながら言った。


「実はね、ずっと前から、ちゃんを連れていきたいと思ってたところがあるの。…でも、もし帰りたくなったら、すぐにでも帰って大丈夫よ!」
「連れていきたいところ…?」
「うん」


かごめが頷き、横にした体を起き上がらせて、まっすぐにを見る。


「…あたしの…あたしとちゃんの、生まれた世界」
「っ!」


思いがけないかごめの言葉に、は勢いよく体を起き上がらせた。


「あ…でも、行けるって決まったわけじゃないのよ。骨食いの井戸を通れるのは、今の所あたしと犬夜叉だけだし…」
「骨食いの井戸…」
「向こうとこっちの世界を繋ぐ井戸。井戸の中に飛び込むと、向こうの世界に行けるの。…ちゃんが行けるかどうかは、やってみないとわからないんだけど…私と同じ未来から来たちゃんなら、いける可能性が高いと思う」


その言葉に、自分の喉がごくりとなるのが分かった。


未来。今の自分には判然としないが、そこは間違いなく自分が存在していた世界。…殺生丸が、いない世界。


「そっか…ちゃん、まだ記憶、まだ戻らないみたいだもんね」
「うん。…だから、もしかして未来に行ってみたら…、なにか、思い出せるかもしれない」
「…」


かごめから自分の出自を聞いたとき、未来の世界に興味を持たなかったわけではなかった。ただ、正直行きたいとか、行って何をしたいとかは、考えたことがなかった。…そもそも、未来にいくという選択肢が、まずなかったからだ。それが、ふってわいた「未来に行く」という選択肢。


ただ、かごめの気遣いは嬉しかったが、恐れのようなものも感じていた。いくら自分が生まれた場所とはいえ、決してなじみのある場所ではない。それに、以前かごめに聞いた話だと、両親も亡くなってしまっているし、幼少のころに不明になっているのなら、おそらく気軽に会いに行けるような友人などもいないだろう。


だが、殺生丸と離れる時間が多ければ、考えもまとまって頭がすっきりするかもしれない。…何より、未来に行けば、殺生丸どころではなくなるだろう。


「…行ってみようかな…未来」


ややあってから、こぼすように言ったに、かごめは、パァッと表情を明るくした。


「やった!じゃあ明日朝、出発ね!…ま、行けるかはわからないけど!」
「うん、よろしくね、かごめちゃん」


かごめの気迫に押されながらも、なんとか笑顔を作る。かごめはまた嬉しそうに笑ってから、さっさと布団をかぶってしまった。


の中に渦巻く、恐怖と、好奇心と、…わずかな羞恥。


知らない世界に行くと言う恐怖。
自分の生まれた世界を見たいと言う好奇心。


―――結局自分は殺生丸から逃げるのだと言う、羞恥心。






「じゃ、行ってくるね、犬夜叉」


かごめはそう言うと、満面の笑みで手を振った。


「遅くなるんじゃねぇぞ!」
「大丈夫。夕方には帰ってくるから」


井戸の縁に足を掛けるかごめ。
はそれをまねるようにして、井戸の木枠に足をかけた。


今回の帰省は日帰り、且つかごめの自宅回りだけということで、犬夜叉は留守番だ。かごめとは顔を合わせると、「せーの」の合い図で同時に井戸の中に落ちてゆく。…その後誰かが登ってくる様子がないということは、どうやらも無事に未来に行けたらしかった。


弥勒はそれを見てやれやれと溜息をついた。これで少しは気晴らしになればいい。そう思いながら後ろを振り返ると、そこには犬夜叉が、昨日と同じようにどこかに警戒の瞳を寄せ、低く唸っていた。


昨日とは違い、すぐにぴんとくる。


「…随分と、お迎えが早いですね、殺生丸」


犬夜叉の視線の先から現れた殺生丸は、今にも周りのものを取って殺しそうな、凶悪な顔をして弥勒をにらんでいた。軽く身震いしたが、の手前すぐに手は出してこないはず。弥勒はそのまま言葉をつづけた。


「…残念ながら様は外出中です」
「…の匂いが消えている」
「ええ。この井戸の先は別世界ですからね」


骨食いの井戸といいまして…と弥勒が説明するのも聞かず、殺生丸は近くの木の根に腰を下ろす。…どうやら、そこでずっと待っているつもりらしい。犬夜叉が心底いやそうに「けっ」と声を漏らした。


殺生丸らしからぬ行動ではあるが、これは決して悪い傾向ではなのだろうと、弥勒は思う。父親譲りなのか、人間を慈しむ心を持ち合わせているようなのに、それを本人は認めようとしない。否、認められないのだろう。何か強いきっかけがなければ…。


七宝と犬夜叉に声をかけ、その場を後にするように促す。おそらくこの兄は、自分たちがいるとより自分の心と向き合えないだろうと踏んだからだ。


二人が楓の家に向かって歩き出したのを見て、弥勒も歩き出そうとしたとき、空からポツリと、大粒の雨が落ちる。


一瞬、殺生丸にも声をかけようかと思ったが、彼は雨に動じる様子もなく、じっと井戸の方を見つめている。


きっと、このままの方がよいのだろうと思いなおして、弥勒は静かにその場を後にした。






強烈な光がおさまったとき、の目に映ったのは、心なしか先程よりも新しく見える縄梯子だった。


「ここが…未来?」
「そうよ!  よかった、ちゃんも来れたのね」


自分の横に立つ
をしっかりとみて、かごめは安堵の息を漏らした。一緒に来てほしいといったものの、実際に来れるかどうかは賭けだったのだ。


「ここ、あがるのよね」
「そうそう!」
「…なんか、緊張するね」
「大丈夫よ!上がったところはすぐうちだもの!」


かごめは言いながら、早々と梯子を昇り始めた。も、かごめが登りおわるのを確認してから、ゆっくりと縄梯子を登る。


胸がざわめく。
この先に一体何があるのだろうと、期待のような、不安のような感情がふわりと広がる。


ちゃん」


先に上がったかごめが、手を差し伸べる。
はかごめの手を強く掴むと、ぐっと力を入れて木枠を飛び越えた。降り立ったそこは、小屋のような場所。どうやら戦国時代の井戸とは違い、きちんと屋根があり、雨風がしのげるところのようだ。

「さ、いくわよちゃん」


木作りの階段を昇って、両開きの扉を勢いよく開くかごめ。


その先に見えるのは、青く澄み切った空と、巨大な一本樹。石畳に、赤い鳥居。そしてその奥に、見たこともない形をした建物がいくつも、びっしりと建っていた。…はるか遠くには、おそらくとても巨大な、塔のようなものも建っている。


「ここ、が…」
「そう、あたしの家、あたしたちの生まれた世界よ」


少し戸惑っているを気遣うように、ゆっくりと手を引いて歩き出すかごめ。は引かれるがままに歩いて、あちらこちらに視線を巡らせた。そして、一本樹の前で、足を止める。


「これって…時代樹?」
「どうして知ってるの?」
「前に夢見師の村に行ったとき、これと良く似た木が…それも時代樹だっていってたの」
「そっか…そういえば、時代樹は一本じゃないって、楓ばあちゃんがいってたわ」
「うん…なんか、不思議だね」
「え?」
「私もかごめちゃんも、時代樹に…導かれたのかな」


荘厳な時代樹を見上げながら、はこれまでの事に思いを馳せる。…様々な人、様々な出来事、様々な妖怪、いろんなことが、自分たちをめぐりあわせ、ここまで連れてきた。…それは、運命なのではないか。この樹を見上げていると、そんな風に思えてしまうのだ。


二人はそのまましばらく、時代樹を見上げていた。






「ふぅ…ご馳走様でした!」


あれからかごめの家の中をあちこち紹介された。記憶が戻っているわけではないにとっては不思議なものばかりであったが、そういうものを見るのが楽しかったし、戦国時代のような危険を感じることもなく、以前かごめが言っていた「平和な世界」というのを、強く実感することが出来た。


かごめの家族にも会うことができ、特にかごめの母親には、かごめとがまだ小さかった頃の話などを聞くことも出来た。途中やってきたかごめの祖父があれこれと難しい話を始めたが、かごめの弟が邪魔しちゃだめだよと言いながらどこかへひきずって行ったりもした。


平和で、楽しい。今までいた時代とは大違いだと、しみじみ思う。


そして今は、かなり早めの夕食をご馳走になったところである。見たことのない料理も多かったが、どれも美味しく、作った人の愛情が感じられるものばかりだった。そのおかげで、少し腹がきつくなるまで食べすぎてしまったは、りんちゃんにも食べさせてあげたいなぁ、と思ってから、はっとした。


「…かごめちゃん」
「なに?ちゃん」


は、先に食べ終わって皿洗いをしていたかごめの背中に向けて言った。


「今日は、連れてきてくれてありがとう」
「いいえー、どういたしまして!」
「あのね、今日ここに来て…私、わかったことがあるの」


の少し真面目な声色に、かごめが手を止めて振り返る。の顔は、晴々とはいかないものの、沈んだ様子でもなく、うっすらと笑みをたたえていた。


「今日、このお家を見て回っててね、どうしても、…みんなのことを考えてしまう自分がいたの」
ちゃん…」
「あの巻物、邪見が見たら欲しがるかなぁとか、阿吽の好きそうな草があるなぁとか、この料理、りんちゃんと一緒に食べたいなぁとか、…殺生丸ならきっと、こんなこというかなぁ、とか」


どこにいても、何をしていても。自然に、みんなのことを考えてしまう。…そう気がついてしまったら、あとはもう止まらない。


「私、やっぱり…みんなと一緒にいたいみたい。…殺生丸のことは、悲しいけど…みんなと…離れたくないみたい」


このまま逃げて、ずっと逃げて、この世界で暮らすことだって、きっとできるのかもしれない。それでも。


「怖いけど…帰ってみようと思う…」
「…うん」


強く頷くかごめ。…心配な気持ちももちろんあるが、 のその決断は、少し前の自分にも、覚えがあることだ。だからこそ、の気持ちを尊重したいと、かごめは思う。


「…じゃあ、帰らなきゃね、みんなのところに」
「うん」


かごめの言葉に、は浅く頷いた。…今も、殺生丸のことを考えると、黒い感情が湧き上がってくる。それでもきっと、今の自分には彼らが必要なのだと、胸に湧き上がるものを強く押さえつけた。


「よし、それじゃ…行こっか」
「…うん!」


今度は強く頷いて、二人顔を見合わせた。






かごめの着替えや食料などをどっさりもって、二人で戦国時代に降り立った。地面がかなり湿っていて、どうやら雨が降ったらしいことが分かる。


まずは荷物をあげるからと、かごめが大荷物を背負って縄梯子を登り始めた。半分手伝うように提案したが、いつもの事だからといって笑うので、任せることにした。いつもこんなにものを持ってきてるのか、と思ったりもしたが、それは言わないことにしておいた。


「あっ!」


井戸を登り切ったところでかごめが突然声を上げたので、は反射的に上を見上げた。どうやら荷物は下ろし終わったのだろうか?背中にあった大きなリュックは背負っていない。何かあったの?と声をかけようとしたとき、かごめが妙に慌てた様子で下を見た。


ちゃんごめん!私弓忘れてきちゃった!」
「え、弓?」
「うん!取りに行ってくるから、先に帰ってて!」


かごめはそう言うと、こちらに向かって勢いよく飛び込んでくる。は反射的に壁にへばりつくようにしてそれを避けたが、ぶつかる間もなくかごめの体は青い光の中へと吸い込まれていった。


「行っ…ちゃった…」


そもそも、弓なんて持って行ってたっけ?そうは思ったものの、ここで呆然としていても仕方ない。不思議なかごめちゃんだなぁ、などとのんびり考えながら、は梯子を登った。


夕刻の橙が、井戸の向こうに広がっている。雨上がりの少し済んだ空気が、の心のもやもやを少し軽くしてくれる。…きっと大丈夫、笑える。自分に言い聞かせるようにそう唱えて、は井戸の木枠を飛び越えた。


夕陽がきらりと揺れて、の目に飛び込んでくる。あちこちで光る雨露が、きらきらと光って視界がくらむ。そんな視界の先に何かが見えて、は目を凝らす。


「っ…」


濡れそぼって光る銀色の髪、伏せられた切れ長の瞳、不機嫌そうに結ばれた口元。 組まれた足に肘をつき、大きな手の先にその美しい顔をのせている。


「―――殺生丸」


伏せられた瞳が静かに持ち上がり、強くを捉えた。



2005.02.19 saturday aki mikami.
2019.12.10 tuesday 加筆、修正。