桜舞う
体が硬直するをよそに、殺生丸は鋭い眼光を向けたまま、すっと静かに立ち上がった
静かに、ゆっくりと歩み寄ってくる殺生丸。は目をそらすこともできず、呆然と立ち尽くしていた。
「な…んで…?」
「…なぜ勝手に消えた」
やっとのことで絞り出した声は、殺生丸の問いに掻き消える。静かだが、ぐらぐらとした炎のような、怒りの感情を秘めた声だ。震えだしそうな体を両手で抑えて、は今度こそ殺生丸から目をそらした。
「だっ…て…」
何かを言おうとしても、喉がひりついていてうまくいかず、ただ俯くことしかできない。殺生丸はのすぐ目の前に立って、そんな彼女を見下ろした。
待っている間は、ただ怒りだけが殺生丸の心を支配していた。だが、今こうしてを目の前にすると、それ以外の感情が自分の中にあるように思える。だが、目の前にいるのに自分の事を見ようともしないに、怒り以外一体何の感情を覚える必要がある?
そんな自問を打ち消すように、の顎を強く持ち上げた。
「目をそらすな」
「っ…」
じっと目を合わせる。いつも見せるとは違う、怯えとも、怒りとも、悲しみともとれるような、複雑な感情が一気にあふれて、それが涙になって、の頬を一筋濡らした。
そんな感情を向けるは、知らない。
面倒だと、殺生丸はの腕を強く掴み、踵を返した。
「ちょっ…」
「帰るぞ」
の呼ぶ声も聞こえていないように、さっさと歩き出してしまう殺生丸。頭に血が昇っているのか、聞く耳をもたない。なぜ殺生丸が怒るのか、にはわからず、混乱と、痛みと、恐怖と、怒りで、頭がぐちゃぐちゃになっていくのがわかった。
「離してっ」
そして咄嗟に、殺生丸の手を払いのけてしまった。
予想外の行動に殺生丸が振り返ると、の両目からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出していた。
「あっ…ご、ごめ…」
「…」
「ごめ、なさ…」
ふりほどかれた手を見やる殺生丸。痛くもかゆくもないのに、どこかひりついているような気がする。そしてを見ると、ばかみたいに震えて、涙をぽろぽろ流して、小さな手をぎゅうぎゅうと握りしめている。力を入れすぎて白くなった手が、夕日に照らされて橙に染まっていた。
は頭が爆発しそうだった。殺生丸の気持ちも、なぜここにいるのかも、なぜ怒っているのかも、なぜ無理に連れ戻そうとするのかもわからない。何よりも、殺生丸から向けられた激しい怒りを、どうしていいのか、わからなかった。
「…ばか」
うまく思考しない頭が出した答えは、そんな一言だった。
「殺生丸の…ばか」
言い終わるより早く、走り出していた。その場にとどまっていられなかった。一人になりたかった。
の背中を、殺生丸は呆然と見送っていた。
林檎は爽やかに吹く春の風を感じて、僅かに目を細めた。それからゆっくりと空を見上げる。
いつからだろうか、春の香りを少し鬱陶しく感じるようになったのは。自分には似合わない、決して手の届かないものだと、知ってからだろうか。でも今日は、それもまた良いかと思えている。桜の花をたたえたような、少女の顔を思い出しながら。
心の奥のほうに、ふわりとした気持ちが渦巻いた。
「…奈落」
どことはない方へと呟いて振り返ると、そこには不敵に笑みを浮かべた奈落の姿。
「随分機嫌が良さそうだな…林檎」
「貴方は機嫌悪そうね」
林檎が言い終わるのが早いか、音もなく歩み寄ってきた奈落は、手を伸ばして林檎の頬に触れた。
「昨日は殺生丸にさせたのか…」
「だって、あなたいないんだもの」
くすりと笑った林檎に気を悪くしたのか、あからさまに顔を歪める奈落。林檎がそれを見て勝ち誇ったような顔をすると、ますます機嫌を損ねた奈落が強く林檎を引き寄せ、乱暴に口付けた。
舌が絡み合い、唇が音を立てて吸い付く。いつのまにか林檎の後頭部に回された奈落の手が、林檎の白銀の髪をかき混ぜるように撫でる。反対の腕は軽く腰を撫でた後、強く林檎の腰を引き寄せ、密着させる。
長く、長い口づけのあと、二人の間に銀の糸が引いて、離れた。
「今日の分は、わしだな」
今度は奈落が勝ち誇って、荒い息を整えている林檎を見下ろした。林檎は口を拭いながら、奈落をにらみあげる。
「どうせ毎日の癖に」
「当然だ。それがお前の役目だからな」
くっくっと笑うと、林檎にぐいと顔を近づける奈落。そして林檎は思う、きっと私はもう、逃げられない、と。
ゆるく目を瞑る林檎に、奈落は今度も深く、深く口づけた。
全力で走った。走り続けた。どこに行くのかなんて当てはない。ただ、一人になりたかった。風に乗って運ばれてくる花の匂いだけが優しくて、その優しさに導かれるように、走り続けた。
あんな言葉を言おうと思ったわけではなかった。もっと優しい言葉を、物わかりのいい言葉を、言おうとしていたのに。
の口から出たのは、殺生丸を侮辱する、最低の言葉だった。
今となっては、先ほどまでの恐怖や混乱、怒りは、すっかり影を潜めていた。代わりに、掴まれた腕の痛みだけが、激しい後悔となって襲い来る。は少し赤くなっている手をさすりながら、走り続けていた足を緩めた。
殺生丸は、どうしているだろう、りんは、邪見は、阿吽は。これからどうすればいい、せっかく迎えに来てくれたのに。
考えながら、ゆるゆると歩く。
どうしたら、みんなのところに帰れるだろうか。でも、いくら考えたところで、殺生丸の手を拒否してしまった自分は、もう帰ることなんて出来はしないのではないか。
そこまで考えて、はゆらりと顔を上げた。森の中を走っていたつもりだったが、いつの間に視界が開けたのか、まぶしい夕陽がの目に飛び込んでくる。
くらくらする視界に少し慣れてきたころ、は目を細めながらも、目の前に広がる光景に目を見開いた。
「…桜」
一本の、桜の大樹。
のいない間に降った雨で、花びらに水滴が付いて、きらきらと輝いている。
は引き寄せられるように桜に歩み寄ると、根元に腰を下ろす。少し地面が濡れていて、お尻から冷たさが伝わってくる。風に乗って落ちて来る桃色の花びらを、ぼんやりと眺めた。
段々と、気持ちが素直になっていく。あれこれと考えて、ざわざわしていた心が平らになっていくような、穏やかな気持ちが、ゆっくりとの中に広がっていく。
「っ…くっ…ぅ…」
また、涙があふれた。
の腕を掴んだ殺生丸の手は、雨で濡れてすっかり冷たかった。
美しい着物が肌に張り付いて、自慢の毛皮もすっかり濡れてしぼんでいて。
銀の長い髪は行水でもしたように濡れそぼって、雫を落としていた。
ずっと、待っていたのだ。
雨の中、ずっとずっと、だけを待っていた。雨がやんでも、濡れた体を乾かすこともせず、ただじっと待っていたのだ。
「…会いたい」
殺生丸に会いたい。今度こそ強くそう思う。会う資格など、今更ないかもしれないけれど、それでも。
「殺生丸…」
「…なんだ」
どことはなく呼びかけた声に答えがあって、は反射的に顔を上げた。…そこには、やっぱり濡れた体はそのままで、それでも先ほどより幾分か涼しい顔の、殺生丸が立っている。夕陽に照らされたその姿があまりに美しくて、は一瞬夢か幻かとさえ思う。
殺生丸は、ゆっくりとの前まで歩み寄った。
「…私を馬鹿とか言ったな」
潜めた殺生丸の声が、の上で響く。それから彼はと視線を合わせるように、ゆっくりとしゃがんで目を細めた。
「訂正しろ」
「え…」
殺生丸の言葉に、は面食らった。謝罪ではなく、訂正?それに、あまり何でもないことのように言うので、なんだか冗談を言っているようにさえ聞こえる。
が目を白黒させていると、殺生丸がふっと笑った。
「…まぁ、良い。私が聞きたいのは、一つ」
「…え?」
彼の言葉に、は首を傾げる。だが彼はそれには答えず、すっとに向けて手を伸ばした。
打たれる。は咄嗟にそう思い、目を瞑る。
だが、予想外にもその手は打つ所か、桜の花びらのようにやさしく、ふわりとの頬を包み込んだ。
「…私と共に、いたいのか、いたくないのか」
表情は全く変わらないのに、どこか穏やかに聞こえる声。その目はただまっすぐにを捉え、その答えを待っている。
胸が熱くなった。は涙が溢れそうになるのを、キュッと堪える。こんな自分に、まだ機会をくれるのかと。
返すべき言葉は決まっている、なのに、林檎の影がの脳裏をちらつく。彼女の存在を思うと、胸がちくちくした。
「…一緒に…いたいよ。いたい、けど…」
二人を見ていたくない。
そんな言葉を発する前に、殺生丸の右手が激しくの横をすり抜け、木の幹を殴りつけた。折れこそしないもの、激しく揺れた木からは、はらはらと大量の花びらが舞い落ちてくる。
すっかり驚いて体をこわばらせるに、殺生丸はぐいと顔を近づけた。
「『でも』や『けど』はどうでもいい」
幹を殴りつけたはずのその手が、今度もまたやさしくの頬で止まる。
それから穏やかな動作で自分のほうへ引き寄せて、ぺろりと涙を舐め取った。
「いたいのか、いたくないのか」
「…っ」
は言葉も無く、ただ殺生丸を見つめた。折角拭ってもらった涙も止まらず、の頬を伝って、殺生丸の指の間に落ちる。
「答えろ」
出来た筋を親指で掻き消しながら、穏やかに尋ねる殺生丸。
…今ならきっと、素直に言える。
そう思って、は口を開いた。
「一緒に…殺生丸と…一緒にいたい」
そう言いきったら、また涙を流す。
の返事を聞いた殺生丸の表情は、驚くほどに穏やかで、優しかった。
「確かだな」
「うん」
「偽りはないな」
「うん」
こくこくと、何度も頷く。そのたびに、黒くて長い髪がかさかさと音を立てた。
「ならば…帰るぞ」
「っ…」
を腕で優しく包み込む殺生丸。
その力はまるで羽でも掴むかのようにふわりとしていたが、もう絶対に逃げられないなと、はぼんやり思った。
「はい」
呟いて、彼の背に手を回す。肩越しに見える殺生丸の長い髪が、桜の花びらと重なって、妙に美しく見えた。
背中に回された腕が、温かい。
不意に殺生丸はそう思う。
それはか弱い存在、彼とはかけ離れた存在。
…人間、というもの。
大が付くほど嫌いだったはずのそれを…こんなにも求めている。
『―――お前に、守るものはあるか』
『伝えたい事があったんじゃないかな』
『何故お前は力を求める』
『…自分のね、居場所』
…くだらない。くだらない、が…
もしかしたらは、ただの人間じゃないのかもしれないと、そんな事を思った。
そうでないと、人間嫌いの自分がに惹かれているなど
…ありはしないはずだから。
を抱き締める腕に力を込めながら、殺生丸はこのときはじめて、なくした左腕の存在を欲した。
の髪に落ちる桜の花びらが、きらきらと輝いていた。
2005.02.20 sunday From aki mikami.
2019.12.10 tuesday 加筆、修正。