その腕に抱きついて


「……眠れない」


呟いて澄んだ空を見上げると、星の光があまりにも眩しくて。―――目を細めて一点を見つめ、ふぅっと溜息をついた。


寝る体制に入ってから二時間以上たつのに寝つくどころか目がさめる一方の。どうにもしようがない、嫌な気持ちを抑えつつ、彼女はそっと雨月刀に触れた。


「神楽…か…」


今日覚えたばかりの名を呟いてみる。殺生丸はどう思ったか知らないが、は彼女を綺麗だと想った。


紅をひいた唇、白地に赤の映える模様は、全てが女を感じさせるものだった。殺生丸は気になっているのかもしれない。妖艶さを帯びた、神楽と言う女を。


「…わからない」


雨月刀の刃先を見つめたまま、ぽつっと呟く。その声は風に混ざって消えていった。


その瞬間、雨月刀がとくとくと脈打ち出す。何事かと思い両手で雨月刀を掴むと、頭の中にたくさんの映像が入り込んできた。


それは記憶。一つ一つが鮮明に、まるで自分が見て来たかのように頭の中を駆け巡る。激しい頭痛と耳鳴りと吐き気。その記憶がそうさせるのだろうか。


幾つもの映像に、たびたび見える白銀の髪。


そうか。これは… 殺生丸の記憶。


彼の見たもの、感じたものの全てが、入り込んで来ているようだった。と出会う前のこと、極一部かもしれないが。痛みに襲われつつもは思う。


たった一瞬のことなのに、永遠のようにも感じられた。


「殺生…丸…」


頭痛ではない痛みが走る。心の底を掻き回すような痛み。殺生丸の感じた痛み。…左腕に、激痛が走る。


「殺…生丸っ」


荒くなった息。心だか腕だかも解らなくなってきた痛み。そしての目から、大粒の涙。カランと音を立てて雨月刀が手を離れる。肩で息をすって空を仰ぐ。


無口のまま、は重い体を奮い立たせる。これからすることがなんの意味のないだろうとわかっていても。それでも今のにはその衝動を止めることが出来なかった。






流れる風が、ざわめきと水の匂いを運んでくる。不意に呼びかけられた気がして、殺生丸は軽く振り返った。そこに見えるのはたくさんの木々と、暗い空。先程ここに来るときに見た光景と、寸分の違いもなかった。


再び湖へと視線を向ける。白銀の髪が、さっと風に揺られて煌いた。


だがその瞬間、不快なほどの啜り泣きに殺生丸は再び振り返る。今度も誰もいないように見えるが、確実にそこに、がいる。


闇の先に少し目を凝らせば、薄ぼんやりと黒い影が見えてくる。その影に向かってため息をつき、眉を寄せ、不機嫌そうにまた湖を見つめた。


放っておいてもここに来るだろうから。


月明かりが水面に反射して、殺生丸の顔をぼんやりと照らしている。


土を踏む音が真後ろから聞こえる。あえて振り返ることをしないのは、そうせずとも今のの表情がわかるから。


泣いている。


こんなときなんと言葉をかければいいかなど、殺生丸にはわからない。わずらわしいから泣くなと言っても止まらないのだろうし、だからと言って慰めてやる言葉など、彼は持ちあわせていない。振り向くといやでもその涙と向き合わなければいけないが、それは彼にとって面倒ごとでしかなかった。


「……殺生丸…」


小さな声。擦れていて、思った以上に震えている。それが何から来る涙なのかは知らないが…は傷ついたりしているのだろうか。が泣くのを見るのは、これで二度目だった。


「…何だ」


振り向かないまま、いつもと変わらない声音で答える。なぜこんなやつに自分が振り回されるのだ。そんな思いが微かに彼の脳内をかすめていく。だが、それもすぐに掻き消されてしまった。


「……殺生丸ッ!!」


涙がの目尻から飛んで、湖に波紋をつくった。


ただが自分に抱きついてきて泣いている。それだけのことなのに、突然月の光も風の音も、寒さすらも感じられなくなる。の温かさとすすり泣く声とに、脳を丸ごと支配される。わずらわしい、そう思っていたはずなのに…引き離すことも、出来ない。


犬夜叉に斬られてからずっと警戒していた左側から来られたにもかかわらず。


「…何のつもりだ」


やっと、絞り出した声。そこにはいつもの気迫や怒気は含まれていなかった。


「……貴方の、左腕」
「…」
「…凄く痛くて、凄く悔しかったのね」
「……」
「ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「…貴方の痛みを…知れたのにっ…何も…出来なっ…からっ」


途切れ途切れにそう漏らす。なにも答えないでいると、すすり泣きはどんどん大きくなり、やがて小さな嗚咽が漏れた。


自分が泣かせたと言うことになるのだろうかと、殺生丸は思う。月の光がやけにまぶしく感じ、ゆるく目を細める


一体どうしようか。…それまで殺生丸に笑いかける人間はいても、殺生丸のために泣く人間など始めてで、対処の仕方がわからなかった。


どうしようもない思いから逃げるように、彼はきつく目を閉じた。



2004.12.26 sunday From aki mikami.
2008.08.13 saturday