父の背中
殺生丸の隣で寝息を立てる。殺生丸は、の目尻にたまった涙をぬぐい、空を見上げた。
月光は相変わらず、二人をぼんやりと照らし出している。殺生丸は隣のの髪を一房だけすくい上げた。
あれから暫く泣き続けたは、自分の今までの暮らしなどをぽつぽつと彼に話しはじめた。
疎外されていたこと、血のつながりはなかったが優しいおじいさんと共に暮らしていたこと、そして殺生丸に会う三日ほど前、村が夜盗に襲われたこと。
殺生丸はそれをに頷くこともなく、ただ黙って聞いていた。
一つ一つはどこにでもありそうな話。だががそのことで、深く傷ついているのがわかった。…最後に聞かされたのは、着物の話だ。
の今着ている着物は、夜盗に襲われる直前に渡されたもので、それが唯一の形見になってしまったという。もらったときは凄く嬉しかったと、無理の残る笑顔で笑った。
「…」
白い顔を見つめ、呟いてみる。だがは起きる気配もない。殺生丸は空を仰ぎ、冷たい空気を吸い込んだ。
水の澄んだ匂いにの匂いが混じる。自分の生活がに支配されている気がして、殺生丸は何となく面白くない気分になった。
「(…この私が、人間ごときに支配されるなど)」
あるはずがない。そう続けられるはずの思考は、そこで中断した。
本当にそうだろうか? 本当にそう言い切れるのだろうか?自問が彼の頭にぽつぽつと浮かんでくる。もしも昔の彼ならば、きっと簡単に答えは出ているのだろう。だが今の彼にははっきりと答えを出すことが出来なかった。
「(迷っている?この私が…)」
怒りのままに顰めた顔を俯ける殺生丸。その瞬間、が小さく寝返りを打った。
「(こいつが、悪いのだ)」
見下ろして、そう思う。
殺生丸の戸惑いは、ほとんどが一行に加わってからのことだ。…だが。
「(今更、殺せぬか)」
今ここで首を引き裂くことなど簡単なはずなのに。
彼女の存在はいつの間にか、殺すには惜しい物となっていた。始めに思っていた利用価値そしてそれ以上に頭にちらつくのは、柔らかい笑顔。…それが隣にないことが、非日常に思える。
殺生丸は、右手を空へとかざした。
見慣れた自分の手。だがいつもと違う動きをする。…自分が望むわけでもないのに。
こんなとき、もしも犬夜叉ならば、自分のわからぬものがわかるのか。殺生丸は再び自問する。完全な妖怪ではない、半妖の犬夜叉なら。
「愚問だな」
思考を止めた殺生丸は、その言葉だけを声にのせた。犬夜叉の思考などわかるはずもない。たとえわかったとしても、参考にしたくもない。
「(きっと、この涙に惑わされているのだ)」
かざしたままの右手を見て、そう思う。
月光は半分隠され、指の隙間から差し込んで殺生丸の顔に影を作る。そのとき彼の脳裏に、父の背中がぼんやりと浮かんだ。
殺生丸が何年も追い続けた背。いつでも敵うことはなかった、最も尊敬すべき存在。
…そして、最も倒すべき、壁だった。
「(父上も…惑わされたのですか)」
返されるはずのない問いを、夜空に投げかけてみる。返ってきたのは、風のざわめきのみ。
殺生丸は腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。隣で幸せそうに眠る人間の顔を、一瞬見やりながら。
2004.12.29 wednesday From aki mikami.
2008.08.13 saturday