悪趣味な舞台


妙に生温い風が、殺生丸の頬を撫でる。彼は風に乗ってやってくる匂いに、ひたと足を止めた。


水の匂いが、僅かに鼻をかすめていく。恐らく水辺が近いのだろう。だが、殺生丸はそんなことを気にしてはいなかった。彼が足を止めたのは、水の匂いと一緒に運ばれてくる、微かなの臭い。


ようやく目的の人物を見つけたが、殺生丸は足を止めたまま、思考を巡らせた。


は奈落の根城にいるとばかり思っていたのに、なぜ外にいるのか。なぜそばに奈落の気配がないのか。不自然なことが多い。


「罠だな」


殺生丸はそう結論付けた。


「この殺生丸に罠を仕掛けるとは、面白い」


今度はためらうことなく、匂いの方へと歩き出す殺生丸。この状況で罠を仕掛ける理由が不明ではあったが、そんなことは関係ないほどに、殺生丸は強く怒りを覚えていた。






うっそうと茂る緑を抜けると、そこは澄んだ水とまだ若い木々が、陰っても明るい太陽光に照らし出されていた。


そしてそんな風景の中に、一人静かに佇んでいる人間の女がいる。それは後ろ姿だったが、当然見間違えるはずもない。だ。


殺生丸が一歩を踏み出し、に近づく。落ちていた枝が折れてぱきりと音を立て、その音で気が付いたのか、はゆっくりと後ろを振り返る。二人の目が、ぱちりと合わさった。


その時のの表情に、殺生丸はハッとする。―――はじめてあった時の泣き顔と、重なったから。


は視線を外さずに、一歩、また一歩と近づいてくる。殺生丸も一瞬ためらったものの、ゆっくりとに近づいていく。何かおかしい、と思いながらも、歩みを止めることはない。


二人の距離が手の届くところまで近づいたところで、は急に殺生丸に倒れこんだ。殺生丸は受け止めなかったが、は殺生丸の胸にそのまましがみつく。その手はわずかに震えていた。


これは、おそらく奈落の罠だ。そうわかっても、本当は振りほどくべきとわかっても、殺生丸は体を硬直させたまま動けなかった。


の小さくすすり泣く声が、彼の耳にはっきりと届く。こいつはいつも泣いているな、などと、のんきなことさえ考えてしまう。


今すぐ突き放せ。頭が命じるが、体がそれを拒否する。殺生丸ははじめてのことに驚き、戸惑っていた。


先に動いたのは、の方だった。しがみついていた手を胸板にあてて、ぐんと勢いをつけて殺生丸から離れる。殺生丸は、弾かれたようにの顔を見た。


「…げっ……て…」


うつむいているためにその口は見えないが、かすれた声で、何かをしゃべっている。殺生丸は僅かに目を細めた。


「逃げて、殺生丸っ」


叫びになりきらない掠れたの声が、辺りに木霊する。その瞬間が勢いよく降り抜いてきた雨月刀を、殺生丸は闘鬼神で受け止める。きん、と透き通った金属音が響き渡った。


「…
「殺生…丸…ごめ…なさ、い」


の雨月刀と殺生丸の闘鬼神がギリギリと音を立てている。の目からは相変らず涙が流れていて、殺生丸は軽く舌打ちをした。


殺生丸はの攻撃をいなしながら、冷静に分析する。


は奈落に操られているらしい。ただ幸か不幸か、操られているのは体だけのようだ。奈落はを殺そうとしている?否、ならば回りくどいことをせずに殺せばいい。をさらうだけなら、こんな悪趣味な演出をする必要もない。ならば、なぜ?


そこまで考えて、殺生丸はと距離を取った。


殺生丸には、奈落の心など読みたくもない。だが、今目の前にいるの心は、なんとなくだがわかる。自分の手で殺生丸を傷つけていることに、泣いている。 の攻撃だけで、殺生丸を倒すことはまず不可能。であれば、標的は殺生丸ではなく自身、それも、の「心」。


が距離を詰めてきて、再び対峙する。澄み切った金属音が、光を反射する水に吸い込まれて消える。その度に殺生丸の髪が翻り、は大粒の涙を零した。


殺生丸が本気を出せば、このままを倒してしまうなど造作もない。だが、殺生丸にはそれが出来ない。彼は忌々しげに眉を寄せた。


奈落もそれをわかっていて、こんな罠を仕掛けたのだ。奈落の思惑に乗らされているのが面白くない殺生丸は、刀を掴んだままの拳でを殴ろうとするが、は軽やかな身のこなしでそれをかわしてしまった。操られていても運動能力や薙刀の腕はそのままらしかった。


雨月刀と闘鬼神が弾き合い、二人は同時に後ろへと飛び下がった。


そのとき突然、辺りに凄まじい邪気が立ち込め始めた。殺生丸は素早くその邪気の出所を探り、一本の木の上へ闘鬼神を向けた。


「…奈落」
「殺生丸様、私の設けた舞台、気に入って頂けましたか?」
「最高に悪趣味だ」


キッと殺生丸が奈落を睨みつける。奈落はそんな殺生丸をただ動かずに見つめた。


「…に四魂のかけらを使いました」
「何だと?」
「右の首筋に」


その証拠に痕が残っているでしょう?殺生丸を見据えたまま奈落が言う。殺生丸は闘鬼神を向けたまま、の首に目をやる。…確かに無数の赤い後がある。殺生丸は怒りを露わに奈落を睨み付けた。


とどめに奈落が、良い反応でしたとせせら笑う。


殺生丸の髪がふわりと舞いあがり、闘鬼神から放たれた淡い光がの横を通り過ぎ、奈落へと当たる。傀儡はしゅうっと音を立てて崩れた。


殺生丸が、傀儡が崩れるのも確認せぬまま、再びに向き直る。闘鬼神を静かに構え、に一歩一歩近づいていく。は未だ涙を流しながらも、雨月刀を構え直した。


「だめ…こない、で」


喉の奥から、何とか声を絞り出す。何とか自我を保てているものの、瘴気で弱り果てていた体に邪悪な四魂のかけらまで使われて、はいつ自分を失うかわからない状態だった。自分のせいで、殺生丸に迷惑をかけていること、奈落に受けた数々の侮辱、そして何より、自分のせいで殺生丸を傷つけてしまうかもしれない恐怖。そんなものがないまぜになっての精神を蝕み、今にも意識を手放しそうになる。


だからせめて、自分のことは捨て置いてほしい。そう、思っているのに。


殺生丸は退くどころか、何度もと距離を詰めてくる。先ほどまでは防戦していたが、今はの隙を狙い、動きを止めようとしているのがわかる。それも、を傷つけないように、決定的な攻撃は一切繰り出さない。


「だめ、逃げ…」
「黙れ」


ぴしゃりと殺生丸が言って、再び間合いを詰めてくる。が雨月刀を振りかざすと、殺生丸はそれを待っていたように闘鬼神を捨て、の手を叩いて雨月刀を叩き落とす。


そして、は目を見開いた。


の体は今、殺生丸に抱き締められているのだから。


は逃れることも出来ず、ただ硬直して立ち尽くす。殺生丸は、そんなの顔を右手で寄せて、僅かに血が滲んでいる、恐らく四魂のかけらが埋め込まれているだろう右の首筋を露わにした。


「!?」
「我慢しろ」


囁いて、その傷に僅かに牙を立てる。舌で傷口をえぐり、吸い付くように探る。はその痛みに顔を歪めたが、奈落の瘴気のせいか、抵抗することは出来なかった。


やがて、殺生丸が口から何かを吐き出し、それと同時にの体から力が抜ける。重力に逆らえなくなり、そのまま殺生丸に倒れこんだ。


吐き出された四魂のかけらは、未だ黒い光を放っていた。


「殺生…丸…」
「…
「ごめんなさい…っ」
「黙っていろ」


涙目で震えているに、殺生丸はぴしゃりと告げた。力の抜けた彼女の体を支えながら、先刻の傷に目を落とす。血が溢れ、垂れ出しそうになっている。そしてその先には、おそらく奈落につけられたであろう、赤い痕がいくつも残っていた。


再びの傷口に口付ける殺生丸。今度は牙を刺すわけではなく、血を舐め取るだけ。はざらざらした舌の感触に身を震わせるが、殺生丸は何度も何度もそれをくり返した。


「っ…殺生…丸っ」
「奈落の瘴気…身体に注がれたか…」


がうんと答える間もなく、殺生丸はの耳たぶに吸い付いた。


ちろりと舐めたり、軽く吸ったり、舌で転がされたりして、おかしな声が出そうになるのを必死に堪える。殺生丸はの様子も意に介さず、何度も首筋の傷や耳たぶを舐めあげる。時々口を放して吸い上げた血を吐き出し、そしてまた舐めはじめる。


その感触が快感に変わりかけたとき、殺生丸の手がの着物を僅かにはだけさせたのがわかって、は反射的に殺生丸を見やった。…彼の目は、はだけさせた着物の下の、奈落につけられた赤い痕に向けられている。


「せ、殺生丸!あの…!」
「…奈落にはこれ以上、…されたのか」
「えっ…」


一瞬何を聞かれているかわからなかったが、思ったよりも殺生丸の目が真剣で、は「されてないよ」と正直に答えた。


「そうか」


の言葉に、殺生丸は静かにそう漏らす。そしての露わになった白い鎖骨に、新たに赤い花を咲かせた。


それは自分がされたことなのに、一種の儀式のようだと、は思った。


やがて殺生丸の唇は静かに離れていく。はその一部始終を呆然と見守っていたが、直後に体がふわりと浮き上がった。


それは殺生丸が、を肩に抱えたからだった。


「ならば良い」


そうぽつりと漏らす殺生丸。からは殺生丸の表情は伺えないが、怒っていないのは確かだろう。殺生丸は闘鬼神と雨月刀を拾い上げると、を抱えたまま静かに歩き出す。


その方向は、奈落の城。にもそれがわかって、これからまた奈落に会うことになるかと思うと、体が震えそうになった。それでも、殺生丸が一緒にいる、それだけで、なんとかなる気もしていて、殺生丸の体温を感じて静かに目を閉じた。



2005.01.03 monday From aki mikami.
2019.12.12 thursday 加筆、修正。