静かな朝
流れる川の水は、これでもかといわんばかりに冷たい。はそれをひとすくい持ち上げると、そっと腕の傷へとかけた。
「――――――っ痛」
はこれで何度目になるかもわからないすり傷を作って、顔を顰めた。
朝早めに目がさめたは、今日の朝食のため川に入っていた。だが、水の中で手をぶつけたり、小石につまづいたり、足を打ち付けたりで、なかなか一人では上手く魚を取れない。さらに、川の水が冷たい分時間がかかると自分の動きが鈍ってくる。普段ならばりんが追い込む役をやってくれるのだが、りんはまだ眠っているので、一人でやらなくてはならない。これがまた大変な作業だった。
岩と岩の間の隙に追い込んでみるのだが、上手く行かない。そしてうまく追い込めたとして、肝心のその魚を掴むことが出来ない。そんなこんなではまだ一匹しか魚を捕まえることが出来ていなかった。
「むぅ。上手くいかないなぁ」
ぽつり、とが独り言をつぶやく。当然返ってくるわけがないが、あえて口に出すのは、気持ちを落ち着けるためのつもりであったが、少し虚しくなっただけだった。
だが、その独り言は決して独り言では終らなかった。
「掴むのが遅いのだ」
そう、返された声。は思わずそちらを勢い良く振り返る。
そこには案の定、嘲笑を浮かべた殺生丸が岩の上で足を組んで座っていた。
「殺生丸っ…もしかして…見てたの?」
「あぁ。最初から、ずっとな」
「~~!」
恥ずかしそうに顔を赤く染める。殺生丸は静かに岩から降りて、今度はその岩によりかかるように立った。
「下手だな」
「だ、だって普段はりんちゃんと二人でやるから」
「それにしても掴むのが遅過ぎる」
「なっ、何よぉ。じゃあ殺生丸は上手く出来るの?」
「当然だ」
背を預けていた岩から離れ、服のまま、川の中まで入ってくる殺生丸。はその事にすこし驚いたが、当の殺生丸ら全く気にせず、川の中を真剣に見据えている。
パシャ、と殺生丸の手が水に浸され、それからゆっくりと引き上げられる。その手には銀の鱗を光らせた魚が、彼の手から開放されようともがく姿があった。
「…本当だぁ」
「嘘だとおもったのか?」
「え?あっ、そんなんじゃ、無いけど…」
殺生丸が軽く右手を振ると、の持つ籠に殺生丸の取った魚が入れられる。はたじろぎながらも今受け取ったばかりの魚をじっと眺めた。
殺生丸が魚取りが上手いなどとは知らなかった。というか、そもそも彼が食事をしている所を、は一度も見た事がない。
「殺生丸って…食事しないの?」
思った疑問をそのまま口に出してみる。殺生丸は怪訝そうにを横目で見遣った。
「なぜだ?」
「あ、あの、殺生丸が食事してるところ、見た事ないし…。で、でも、食べないわけないよね。…なに食べてるの?」
慌てた様子で両の手を顔の前で振り、控えめにそう尋ねる。殺生丸は不敵な笑みを浮かべて、ちら、とを見た。
「……人間」
「えっ!!?」
「嘘だ」
「うっ…嘘…?」
は目を白黒させて、伺うように殺生丸の顔を見る。あまりにも予想通りの反応で、殺生丸は満足げにを見返した。
「あぁ」
「本当…?」
「私が信用出来ぬか?」
「え?いや、そう言うんじゃ…」
「…似たような物は食べているがな」
殺生丸はそう言って、意地悪く笑みを浮かべる。は殺生丸の言葉に肩を震わせていたが、彼の笑いでやっとからかわれているとわかった。
「ちょっと殺生丸、からかってるでしょ!」
むぅっと頬を膨らませる。だが殺生丸は「さぁな」と言って薄笑いのままにそっぽを向いた。
そんな風に、と殺生丸の魚取りは続いた。
二人が水からあがった時、朝日は先程よりも幾分か高かった。は捲り上げていた着物の裾を下ろしてパンパンとしわを伸ばす。殺生丸は袴の足下がかなり濡れてしまったため、動きずらそうにしている。がきちんと拭いたほうが良いと言うと、殺生丸から妙な返事が返ってきた。
「…変化すればましになる」
変化、とは、には聞き慣れない言葉で軽く首を傾げる。殺生丸はそんな彼女の様子に軽く溜息をついて、に背を向けた。
「私は元々犬の妖怪だ」
「…犬?じゃあ犬になるの?」
「あぁ」
は感心しながら、何やら想像しているようで、ふぅん、とか、へぇ、とか言いながら目線を落とした。殺生丸はもう一度溜息をつくと、ふっと緩く目を閉じた。そして段々と殺生丸の体が巨大な犬へと変化していき、ついには完全なそれとなり、を高くから見下ろす。途中でそのことに気がついたは、そのあまりの大きさと突然さに驚いて、口をぱくぱくとさせた。
「本当に…殺生丸?」
目の前の巨大犬に一歩一歩近づく。その赤くなった双眼は強い意志を持ってを見据えていて、額には相変らず月の模様。そして何よりその雰囲気が、獣であってもぐっと息を呑む程の凄艶さが、殺生丸であることを物語っていた。
「何だか不思議。……綺麗」
そう言って彼の頭を撫でようと手を伸ばす。だが、かなり高い所にあるため、口にすら手は届かない。
殺生丸は大きく体を振るって水気を落とす。水滴が僅かにの頬にかかって、思わず目を細くした。
「ちょっ…殺生丸、冷たいよ」
くすくすと笑う。殺生丸はそれに答えるかのようにを見据えた。…ほんの数秒、見つめあう二人。
は急に恥しくなり、赤くなって顔を逸らす。そして恐る恐る彼の方を見ると、いつの間にやら彼は人型に戻っていた。
「あ、あれ?いつ戻ったの…?」
「お前が後ろを向いている間だ」
「あっ…そっか…」
頬を染めたままそう呟く。その様子には少しも恐怖や警戒はない。殺生丸にしてみれば、自分のあの姿を見られたのに、綺麗と言っていられるが信じられなかった。今まで恐ろしいと言って逃げた人間はいても、綺麗といい、ましてや自分から近づいて頭を撫でようとするなんて全く考えられなかった。
はどうも、殺生丸の予想しないことを平然とやってのけるらしい。しかし当のはそれに全く気付かずに、照れた顔であれこれ唸っている。
「」
「え?なにっ?」
「……お前は、怖くは無いのか?」
「へ?」
何が?とでも言わんばかりに首を傾げる。殺生丸はそんなに呆れたのか諦めたのかはたまた両方か。もう良いと言ってその場に足を組んで座りこんだ。
だがにしてみれば、そこまで話を振られて途端に中断されては気になるのもあたり前と言うもの。そして極めつけは、の方を見て意味ありげなため息をついたのだから、もっと聞いてみたくなった。
「何?」
「もう良いと言っている」
「でも気になる」
むぅっと頬を膨らませる。
殺生丸はそれを見ると、今度はにばれない様に小さくため息をつく。そして先程やめた質問の続きを話すため、ゆっくりと口を開いた。
「お前は変化した私が怖くないのか」
が思っていたよりも真剣な声音。はそれに驚くが、彼に質問の内容にはもっと驚いた。
「怖い?綺麗だなぁとは思ったけど…殺生丸のこと怖がる必要ないよね?」
素直に思ったことを口にしたのに、殺生丸は何も答えずにいるので、は彼の顔をのぞき込んだ。殺生丸より、バラバラになった奈落の方が怖かったよ、などと冗談を言ったが、殺生丸はどこか中空を見ていて答えない。
あまりに反応がないので少しむっとして、殺生丸の頬を軽くつつく。と、やっとに視線をあわせた殺生丸が、仕返しと言わんばかりにの頬を思い切りつねってみせる。
「いったっ!!」
の叫び声があたりに響き渡ると、殺生丸の手がすっと離れていく。は彼に抗議しようとしたが、その瞬間彼が呟いた、そのひと言があまりに印象的で、抗議の言葉は飲み込まれてしまった。
「夢では、無いな」
その言葉がどんな意味を持つのか、にはわからなかったが。
そういった殺生丸の顔が穏やかに見えて、きっと悪い意味ではないのだろうと、は思った。
静かな朝の、何気ない出来事だった。
2005.01.05 wednesday From aki mikami.
2019.12.10 tuesday 加筆、修正。