波瀾の夜


今日はいつもより、月が眩しく感じられる。は佇む殺生丸の隣に並んで、そんなことを想った。


りんと邪見は本日の夕食を調達しに出ている。ここでが一緒に行かないのは、りんの倍は体の大きいが出ていけば、見つかりやすくなるからである。


つまりりんと邪見は今、手近の農家で盗みをしているわけで、の分は二人が持って帰って来てくれることになっていた。


がぼんやりと空を見上げれば、そこにはそろそろ満月に近い月が、ぽっかりと浮かんでいる。隣にいる殺生丸もどうやらそれを見ているらしく、は息を殺して横目で彼を見つめた。すると、殺生丸はそれに気付いたのか、同じように彼女をじっと見据える。


どちらからも話をしないまま、見つめあう形になってしまう。


自分から見てしまったため、何?と話を振ることも出来ないは、殺生丸の端正な顔をただ見つめることしか出来ず、殺生丸も何も言わず…少し冷たい夜風だけが、二人の間を遠慮がちに通り過ぎていった。


やがて我慢しきれなくなり、が先に目を逸らすと、殺生丸はぐっとの肩を掴み、体ごと自分の方を向かせた。


「っ、殺生丸…?」
「………」


が声を掛けるが、殺生丸は何も答えず、先ほど以上にじ、とを見つめる。気のせいか彼女を掴む手の力も強くなっていた。


そして不意に肩から手が離れ、かわりにの髪へと触れる。は跳ね上がりそうになる胸を無理矢理押さえ込み、きつく目を瞑った。


…だが、数秒たってもその先は何もなく、すっと殺生丸の手が離れていく。


が恐る恐る目を開くと、そこには相変らず涼しい顔をしている殺生丸がいて、今度はの方を見つめていなかった。


はそんな彼の顔をそっと覗きこむと、殺生丸はに視線を合わせぬまま言った。


「蛾が、ついていた」
「えっ…えっ?」
「髪に」
「あっ…」


は先程殺生丸に触られた辺りに慌てて触れる。だがそこには何か付いている様子はなく、改めて手ぐしで髪全体を梳かすが、何もついていなかった。


「と、取ってくれたの?」
「…」
「あ、ありがとう」
「別に良い」


ふい、と、そっぽを向いてしまう殺生丸。
は赤くなる顔をどうにかするためにただ空を見つめた。そして、何かされるのではないかなどと思ってしまった自分を深く恥じた。殺生丸の美しい顔に、満月を思わせる金色の瞳、そして月明かりを受けて煌めく長い銀髪。なぜだか胸が高鳴ってしまって、それがまたの顔を赤くさせた。


そんなを知ってか知らずか、殺生丸は意地悪そうに口の端をあげ、ポツリと言った。


「…痕は消えたな」
「っ!?」


は真っ赤な顔のまま殺生丸を振り向く。だが殺生丸はからかうように笑みを浮かべて、を見下ろすのみ。


は殺生丸の着物をぎゅっと掴んで、赤い顔のまま彼を睨み上げた。


「ひどい殺生丸」
「そういうわりには顔が赤いな」
「そ、それは…殺生丸がへんなこと言うからでしょ?」
「思ったことを言っただけだ」
「……うっ」


そこまで言われ、は黙り込んでしまう。確かに殺生丸はありのままを指摘しただけ。勝手にが何かされると勘違いし、照れているだけだ。


「何か、されるとでも思ったのか」
「そっ、それは…」
「それとも、されたかったのか」
「そそっ、そんなこと…!」


ないもん、と続いた声は、ほとんど聞き取れないほど小さい声だった。殺生丸の言うとおり、何かをされると思ったし、それを少しだけ期待してしまっていた自分がいることに、は気づいてしまったからだ。


殺生丸の着物を掴んだまま泣きそうな顔をしているに、殺生丸は僅かに笑みを浮かべた。そして、その耳に静かに唇をよせ、ぽつりと言葉を漏す。


「…その気がなかったわけではない」
「…っ」


彼の声がぞくりと響いて顔を上げる。目があった殺生丸は妖艶で、は何も言葉が出てこなくなってしまう。


ふわりと風が吹き抜けると、殺生丸が静かにから離れ、また月を見上げる。そしてそれきり何も喋らない。その横顔は、さっきまでのことに全く動じていないようで、戸惑いと僅かな不安がの中に生まれてきた。


は一瞬だけ躊躇ったが、正直に今浮かんだことを彼に尋ねた。


「…なんであのとき、あんなことしたの…?」


の言う「あのとき」とは、もちろん奈落に操られたの体から殺生丸が四魂の玉を取り出した時。殺生丸に口付けられたところが疼いた気がして、そっと手を添える。


「どうして…?」


控えめに、だが強く、が彼に問う。すると彼は答えづらいのか顔を僅かに顰めて、小さく漏らした。


「奈落のものになるのは、癪に障る」
「えっ?」


殺生丸はそういうと、流れるような手つきで手を伸ばす。そしてを見据えると、彼女の髪を一房掴み、そっと口付けを落とした。


儀式めいていて、時が止まったような錯覚にさえ陥る。月の光が映し出す殺生丸の顔は、穏やかで、それでいて艷やかで、妖しく、美しい。


ふわりと風が吹き、ひやりとした空気が二人を包み込んだ。


殺生丸はその手をから離し、顔を背けて空を仰ぐ。それからひと言、そのままの様子で呟いた。


「今は、これで良い」


ざぁっと、草が揺れて音を立てる。だが、はそれすら耳に入ってこなかった。


殺生丸の言葉に、聴覚が、心までが、支配されていたのだから。


風がさわりとの頬を撫でてゆくが、それもあまり気にならない。は自分から離れて歩いてゆく殺生丸を、ただ見つめていた。言葉もなく呆然と、その背中を見送る。だが、少しして殺生丸が振り向き、嘲笑を浮かべる。それを見ては、かぁっと赤くなって殺生丸の元へと駆け出した。


「ちょっと!またからかったでしょ!」


が叫ぶと、殺生丸にしては大きな声でさぁなと返される。はむくれて彼を睨み付けた。


不意に、殺生丸が足を止めた。笑みも消え、あたりを警戒するように険しい顔になる。は殺生丸の隣でぴたりと足を止めた。


「どうかしたの、殺生丸…」
「…風の匂いが変わった」
「え?」


殺生丸の言葉に、は首を傾げる。には風の匂いなどわかったものではないので、おそらく何かを感じるということなのだろうが、には特に思いつくことはない。


するとそこに。


「せ、殺生丸様~っ」


聞きなれた声が聞こえてきて、と殺生丸がそちらを振り向く。今にも転びそうな邪見が、よろめく体を人頭杖で支えている。


「りんが…連れ去られました」


その言葉に、は目を見開いて邪見を見つめた。殺生丸も、わかりやすく表情が険しくなる。


「奈落の分身の神楽と言う女が現れて、いきなり…」
「(神楽!?)」


つい先日聞いたばかりの名前だと、は思考を巡らせた。神楽がりんを連れ去ったということは、奈落がりんを連れさるよう命じたのだろう。なぜではなくりんなのか。不安と混乱が同時にの心に渦巻く。


「ご安心ください、殺生丸様」


不意に聞こえた声に振り返ると、そこには狒狒の皮を被った忌々しい姿があった。は湧き上がる怒りを抑え込むように、ぐっと雨月刀を握り構えた。


「願いを聞いて頂きさえすれば…りんと言う娘は無事にお返しいたします」
「き、貴様奈落…」
「奈落…か。今度は何を企んでいる」


殺生丸がそう言うと、奈落はそのままで話を続けた。


「特別な事ではございません。ただ犬夜叉を殺してくだされば良い」
「ふっ、そんな事のために、持って回った事を…」


芝居めいた奈落の言葉に、殺生丸は嘲笑を浮かべる。が呆気に取られていると、目の前の奈落が殺生丸によって引き裂かれ、ザァッと音を立てて崩れた。あとには小さな木だけが残っている。以前にも同じものを見たことがあるとは思った。


「これは…傀儡…」


邪見が呟く。殺生丸はそんな邪見を見やり、無表情のままつぶやいた。


「この殺生丸がたかが人間の小娘一匹の為に、言いなりになると思っているのか」
「では殺生丸様、りんをお見捨てに…?」
「っ、殺生丸っ」


邪見とがそれぞれ反応を示すが、彼はそれに返答もせず、二人に背を向けて歩き出す。邪見が慌てた様子で殺生丸を呼び、追いかける。


はほっとした表情を浮かべて、阿吽の手綱を掴み彼の後を追った。


こうして、波瀾の夜は静かに幕を開けた。



2005.01.06 thursday From aki mikami.
2019.12.27 friday 加筆、修正。