戦いの行方


ぼたりとの腕から流れ出る血が、地面に血だまりを作る。それを涼しい顔で見つめる神楽の頬には、赤い筋傷が出来上がった。


「あ、殺生丸様!」


目を覚ましたりんが殺生丸を見て嬉しそうに言うが、すぐ傍にいる琥珀が目に入り固まった。


「琥珀…」


りんが恐る恐る声を掛けるが返事はなく、琥珀はそのまま自分の武器を手に逃げ去ってしまった。


殺生丸はそんな琥珀の後姿を黙って見送る。そして犬夜叉は、その殺生丸を複雑な気持ちで見つめていた。


殺生丸の冷酷さは身に沁みている。以前の殺生丸ならばきっと、琥珀を追いかけて殺していてもおかしくないだろう。背中を見送るというその行動は、犬夜叉の知っている殺生丸からは想像もつかないものだった。


そのとき、下から上へ風が舞い上がって、その場にいた全員が空を見上げる。覚えのある風の先にいたのは、羽に乗った神楽と琥珀。呼び止める間もなく、二人はそのまま風にのって消えていった。二人の臭いは、舞い上がった風に乗って散っていき、行方を追うのは殺生丸や犬夜叉でも難しそうだった。


「あの…」


かごめの控えめな声が殺生丸に向けられる。


「ありがとう…琥珀くんを許してくれて…」
「あの小僧は私に殺されようとしていた」
「殺生丸お前…気付いてたのか」
「―――奈落の下らん思惑に乗りたくなかっただけだ」


殺生丸はそう言うと、犬夜叉達に背を向けて歩き出した。りんは殺生丸の背中を慌てて追いかける。


二人はりんの「さよならっ」の声と共に、薄ぼんやりとした闇の中へ消えて行った。






「せっ、殺生丸様~!」


阿吽に乗ったまま上空で叫んでいる邪見の声が聞こえると、殺生丸の足がぴたりと止まる。それにあわせてりんも停止すると、その場に阿吽が着地した。


「殺生丸様よくぞご無事で!」


阿吽から転がるように降りて、今にも泣き出しそうな顔で殺生丸を見上げる邪見。取り立てて返事をすることもない、いつも通りの邪見の反応に、殺生丸はすぐに邪見への興味を失った。邪見よりももっと気にかけるべきことがあるのに気が付いていたからだ。


「邪見」
「はっ、何でございましょう」
はどこへ行った」


邪見と一緒に奈落の城に置いてきたはずのが、なぜ邪見と共にいないのか。辺りの匂いを探るも、それらしい匂いは感じられなかった。


「そ、それが…ここに来る途中に風使いの神楽という女妖怪が、と勝負をするなどと言って……」
「何?」


それでちゃん置いてきちゃったの?!とりんが激怒しているが、邪見は人間の娘のことなぞわしが知るか!などと返して大喧嘩になっている。殺生丸はそんな二人にぴしゃりと「うるさい」と浴びせて黙らせた。


神楽は先ほど琥珀を連れて逃げていった。…ということは、自然とは負けたことになる。負けたということは、命も…


苦しげなの姿が、頭に浮かんだ。


殺生丸は黙って歩き出した。その目は真っ直ぐに邪見たちの来た方を見つめている。邪見もりんも、そんな殺生丸を咄嗟に追いかけられず、黙ってその背中を見送ってしまった。






「ッ」


殺生丸はこれで何度目かもわからない舌打ちをした。森の中に入ってはみたものの、神楽の風によって匂いが掻き消されているのか、うまくの匂いが追えない。水辺があるらしいが、あちらこちらから水の匂いがして、匂いが空気ごとかき混ぜられたかのような錯覚に陥る。周りに茂る木々までが彼の邪魔をした。


そして殺生丸を焦らせるものは、時折感じるの匂いが「血の臭い」だと言うこと。地面には、真新しい赤い痕が垂れ落ちている。ただ、この血の跡があちこちにあるということは、が生きていることの何よりの証明。最悪の事態だけは回避できているだろうが、それも長く放置すればどうなるかはわからない。


乱暴に木と木の間を掻き分け、の姿を捕らえようとした。だが、この探し方では埒が明かない。


いいかげん地道に探すのが面倒になった殺生丸は、今までの進行方向から軌道修正して空に飛び上がった。広い場所に出て、上からを探そうと考えたのだ。


上空に出ても、当然の匂いは感じられない。だが、あの血のあとからして彼女がまだこのあたりにいるのは間違いない。そう考えると、行きそうな場所はおそらく、水のあるところ。ぐるりと森を見回して、生茂る木が薄くなっているところへと跳んだ。


丁度、朝日が昇りはじめる。ようやく水辺が見えてきたと思ったら、朝日が泉に反射して、その光が彼の視界を埋め尽くし、眩しさに思わず目を細めた。それでもそこにいるはずのの姿を捕らえようと目を凝らす。


「ッ」


泉の中に浮かぶ人影を捉えた瞬間、殺生丸は再び舌打ちをした。泉の前に降り立つと瞬時に泉に背中を向ける。物音に気付いたらしい人影の正体が、きゃっと短く悲鳴を上げる。


水辺にいると言うことは、戦いで出来た傷を癒しているということだ。つまり、は泉で水浴びをしていたのだ。殺生丸は黙りこみ、は反射的に殺生丸に背を向け、肩まで水に浸かって身を隠した。


見られてしまったも気まずいだろうが、見てしまった殺生丸の方は、より一層気まずいことこの上なかった。しかも先程見た背中が目に焼き付いているなど、口が裂けても言えるはずがなかった。


「…殺生丸…もしかして迎えに来てくれたの?」


が控えめに尋ねるが、殺生丸は当然彼女に背を向けたままで沈黙を落とした。


はそれを勝手に肯定と取り、話を続けた。


「ごめんね…せっかく迎えに来てくれたのに、こんなところで油売ってて…。神楽と闘った傷、どうしても洗い流しておきたくて…」


殺生丸は、先ほど見たの背中を思い出していた。


えぐられたような傷が、左肩から背に向かって伸びている。未だ塞がらないその傷からは、鮮血が静かに溢れ出していた。


自分でも意識しないままに、彼の足は動いていた。が異変に気付き声をかけるのも聞かず、水の中まで入って行って、の右肩を掴んで捕まえた。


「…この傷は」
「……神楽の攻撃を避けた時、鋭い岩にぶつかって。……殺生丸?」


が恥ずかしさと動揺から彼を呼んでみるが、返事はなかった。


やがて彼の手は、右肩からゆっくり背中へ移動して、傷の周囲を滑った。思わず身じろぎして痛みから逃げようとするが、殺生丸がの背中の傷を舌で丁寧に舐め始めた。


「殺生丸っ…」
「黙れ」


恥ずかしくて抵抗しようとするから距離を取って背を向けて座った。


は一瞬、何が起きたかわからなかったが、そっと背後を伺い見ても、彼が振り向く気配はない。


水から素早く抜け出すと、着物を乱暴に掴んで羽織る。もう一度殺生丸を見るが、先程と寸分違わぬ様子にほっとして、改めて着物を着直した。


足袋をはき、襦袢を着て、襟を直し、改めて着物を着て帯をしめる。神楽との戦いで大分痛んでしまったが、何とか原型は留めていた。


「おまたせ、殺生丸」
「遅い」
「ごめんね。…なんか穴が多くて、着辛くて」


殺生丸は立ち上がって、改めてその姿を見て、思わず眉をひそめた。


前も後ろも、いたるところが裂けているし、血が染み付いて固まっている。それは闘いの凄惨さを物語っていた。


以前、お爺さんからもらったものだと悲しそうに漏らしていた着物が、たった一晩の戦いで着るのにも手間取るほどになってしまったのだ。


かける言葉が見つからず、殺生丸はから目を逸らした。そんな彼の気持ちも知らず、は不安気に殺生丸をのぞきこむ。


「…どうかした?」


自分が不快にさせてしまったのだろうか。そんなことを考えているのだろうかと思うと、殺生丸からは自然にため息が漏れた。何かあると自分のせいだと思ってしまう傾向が強い。そこは悪いところだろうと、殺生丸は思った。


「ゆくぞ」


そう言って歩きながら、考えた。今のまま血だらけの着物姿でいさせるわけにはいかないだろう。だが、はお爺さんから貰ったものを捨てる気はないだろう。


頑固なをどう説得しようか。そんなことを、真剣に考える殺生丸がいた。



2005.01.09 sunday From aki mikami.
2007.02.19 monday 加筆、修正。
2020.01.01 wednesday 加筆、修正。