清流の如く


「りんちゃん、顔洗いに行こっか」
「うん、ちゃん」


川の淵で仲良く顔を洗うりんと。殺生丸は、そんな二人の様子を少し離れたところから見ていた。


先ほどから、妙な妖気を感じる。嫌なものではない。決して悪意を感じない、「清らかな」妖気。しかしりんはともかく、がそのことにまったく気づいていない様子だった。少し呆れる気持ちもあったが、下手に気づいて慌てられるよりいいか、といいように解釈することにした。


「冷たいねー、りんちゃん」
「うん!邪見様にかけちゃえ、えい!」
「な、何をするりん、このっ」


りんと邪見の水の掛け合いが始まると、はそんな二人を見てくすくす笑った。不意をついて邪見がにも水を掛けると、はにやりと口の端を上げて邪見の頭を掴んだ。


「邪見~?」
「な、なんじゃい」
「よくもやったなぁ~?」


そう言って、両手で水をすくって邪見の顔目がけてかける。一瞬目をつぶるのが遅れた邪見が少し苦しそうに顔を拭いながら抗議する。りんはそれを見て楽しそうに笑った。


そんな平和な光景を眺めていたとき、遠くにあるだけだった妖気が段々近づいてきて、殺生丸は腰を上げた。は彼の異変に気づき、邪見を解放してから殺生丸を見やる。


「…殺生丸?」
「…来る」
「?」


何が、と言うの疑問を読み取ったかのように、殺生丸はす、と視線を川へ移した。
が促されるままに視線を送ると、そこには一人の青年が、水の上に立っていた。


の目が、大きく見開かれる。


「…貴方は」
「久しいな、娘」


青年は穏やかに…まるで懐かしむように、に語りかける。…彼は、が家を、家族をなくした日に見た、あの青年だった。


「貴方の顔は…忘れたことなかったわ」
「…そうだろうな」


そう言う彼は、顔に何の表情も浮かべない。それが気に食わなかったは、彼をにらみつけた。りんが状況を察してか、殺生丸の足元にかけていき、隠れるようにしてたちを見守った。


「何者だこいつは」


青年を見て、殺生丸がそう問う。


「私の村を滅ぼした夜盗。…この間言った、蒼い目の…」
「…」


殺生丸は、改めて青年を見やった。


は夜盗といったが、本当にそうなのか、殺生丸は考えていた。彼は明らかに妖怪だ。妖気が清らかなのでわかりにくいが、かなり強い力を持っている。夜盗をして人間を襲わずとも、妖怪の中で充分生きていける。だが、殺生丸にはが嘘をついているとも思えなかった。


「我が名は水憐【スイレン】。娘、お前の力を借りたい」


ゆっくりと、丁寧に名乗り、頭を下げる水憐。だが、はそれにも容赦なく鋭い目を向けた。


「力を借りたい…、って?」
「夢見師の力を、だ」
「…随分都合が良いのね。私の村をあんなにしておいて!」


ぎゅっときつく雨月刀を握り締める。あの日の惨劇が、脳裏によぎった。


「先に言っておくが…村を襲ったのは私ではない」
「嘘!だったらなんで謝る必要があるの!?」
「それは……」


言葉を濁す水憐。はほらね、と嘲笑を浮かべた。


「あのときは私だけは殺さないで逃げてくれたおかげで、こうしていられるけど…でもやっぱり許せない!」


ギリッと奥歯を噛締める。浮かんでくる涙をキュッと抑え、勢いで水憐に切りかかった。


二本の刀が対峙する。水に浮いている水憐とは違い、の体は川の水に腰まで漬かった。ギリギリと音を立てて押し合い、水憐が慌てたような様子で口を開く。


「待てっ、話を…」
「誰が貴方の話なんてっ」


水憐がを軽く弾き飛ばす。その勢いで水底に手をつく。だがすぐに立ち上がって、再び水憐に斬りかかる。


殺生丸は二人の様子を、黙って見ていた。は、決して助太刀を望まないだろうと思ったからだ。…それに、殺生丸には「水憐」と言う名に聞き覚えがあった。もうずっと昔。が生まれる遥か前。


「(まだ父上が生きていた頃だ…)」


曖昧な記憶をひとつずつ辿っていく。そして幾つかの風景が頭をよぎると同時に、殺生丸は目を見開いた。


「(……竜の一族)」


何百年も昔、闘牙王と共に訪れた、聖域と呼ばれた場所。たくさんの木々に囲まれた、魚一匹住まない湖と、湖を埋め尽くすほどの睡蓮の花。何人をも近づけまいとするようなその清浄さは、まさに聖域の名に相応しいと殺生丸は思った。そして水から顔を出した、二匹の竜。二匹は親子だった。


親の方は闘牙王の古い友人、名を水霊神【スイレイジン】と名乗った。そして隣にいた子供―――


「(あの時の竜…)」


その時は竜型の姿しか見ていなかったのですぐにはわからなかった。そして、それ以上にそのときの殺生丸は、その親子に何の興味もなかったのだ。


きん、と金属音が響く。殺生丸が思考を巡らせている間も、勝負は続いていた。人間と妖怪で戦えば当然妖怪が有利、水憐が押し勝っている。


だが、も一歩も譲る様子がない。「力」では負けているが、その分「技」と「手数の多さ」を武器に攻撃する。形勢を逆転できるほどではないものの、よく対抗しているものだと、殺生丸はの太刀筋を見ながら思っていた。


「話を聞け!」


水憐はが突っ込んできたのをなんとか止めると、その勢いを利用して彼女の身体を川向こうまで吹っ飛ばした。


「あれは、女の妖怪が死人を操ってやったことだ!」
「うそだ!」
「本当だ!奈落というものに言われてやったと…!」
「!?」


ピタリ、との動きが止まった。今まで黙って二人を見ていた殺生丸も、水憐の話に鋭い目を向ける。


「どういうこと…?」
「風の妖怪が、夢見師の娘以外は…皆殺しにすると…」
「……うそ」


からん、と雨月刀がの手を離れた。頭を打たれたような感覚で、がくんと膝をつく。


それは、深い絶望だった。風の妖怪というのは、神楽のことだろう。夜盗に襲われたのではなく、神楽が屍舞で野党を操って、村を襲わせたのだ。の、夢見の力のせいで。


…情けなさ、絶望、申し訳なさ、憎しみ、いろんな感情で、は強く手を握った。


「娘よ…」

…お前の力、貸してくれぬか…」


の絶望を感じ取ったのだろうか。水憐の声色は随分優しかった。…は僅かに顔を上げ、水憐を見る。


「私の力を貸す?」
「お前に夢を見てほしいのだ」
「…夢を…見る…?」


水憐の申し出に、は考え込んだ。自身、自分が本当に夢見師であるかも自信がないし、夢見の方法など知らない。時折予知夢のようなものが見れることもあるが、どんなきっかけなのかもわからない。ただ、彼に協力すれば、村が襲われたときのことや、彼がなぜあそこにいたのか、もっと詳しく聞けることがあるかもしれない。


「少し…考えさせて…」


そう言ったを見て、水憐は優しく笑みをつくり、わかったと頷いた。そして、蒼く澄んだ目を殺生丸へと向ける。


「まさか、お前が人間と旅をしているとはな」
「……貴様は変わらないようだな、水憐」
「覚えていたか、殺生丸」
「今思い出した」


水憐は殺生丸の言葉にそうか、と苦笑して見せる。確かに先ほど、何者だこいつは、といっていたことを思い出す。その性格は相変らずだな、とひそかに笑った。は二人のやりとりに驚いて、感じたままの疑問を口に出した。


「…二人は…知り合い?」
「何百年か前に、一度だけ」


殺生丸がそう言うと、水憐にちらと目を向ける。は立ち上がり、落とした雨月刀を拾いあげながら、二人の顔を順番に見た。


「友人…なの?」
「いや…そう言うわけでは…」


水憐が慌てたように、だが照れくさそうに言うが、殺生丸は急に不機嫌な顔になり、ただの知り合いだ、と言って二人の友人関係をばっさりと切り捨てた。水憐は少し残念そうな顔したものの、に向き直ったときには笑みを浮かべていた。


「では、失礼する」


ふわりと浮かび上がる水憐。達が見送る中、昇りきった朝日の中へと消えて行った。


ようやく嵐が去った。そんな思いで水憐を見送っていた殺生丸は、彼が見えなくなると同時にの方へちら、と視線をよこした。先ほどの話を聞いている限り、とても穏やかな心持ちではないだろうと思ったからだ。


殺生丸が目をやるのとほぼ同時に、の体が前に傾いて行く。やんわりと閉じられた目。どさ、と言う音と共にが地面へと倒れ伏し、殺生丸は目を見開いた。りんと邪見が慌てて駆け寄り、殺生丸もそれに続く。


は気を失っているようだった。


「殺生丸様…ちゃんどうしたの?大丈夫なの?」
「気を失っているだけだ」
「よかったぁ…」


ほぅっと息をつくりん。殺生丸はの体を持ち上げると、阿吽のところまで連れていき、その背にゆっくりと凭せかけた。


水憐の話が本当ならば、の家を焼いたのは、奈落の策略だったことになる。そしてその目的はおそらく、以前殺生丸に仕掛けた罠と同じ、「の心を壊すこと」。


あの薄笑いが、頭をよぎった。


必ず殺してやる。


奥歯を噛締め、空を見上げた。


青く澄んだ、雲一つない晴天。清流の如く静かに現れた水憐に、の仕組まれた記憶。


何もかも奈落の思惑通りに動いている気がして、殺生丸は湧き起こる怒りを押さえ込み、の前髪を軽く梳いた。



2005.01.12 wednesday From aki mikami.
2007.02.27 tuesday 修正。
2019.12.13 friday 加筆、修正。