約束


差し込む月明りを頼りに湖を泳いでのぼっていく。水面が近づくたび、その邪気はだんだんと強くなっていった。


水憐と殺生丸が水から上がった先には、満月なのに妙に暗く感じる闇夜の下、狒々の皮を被った妖怪が、この場所にはあまりに不似合いな邪悪な気を放っていた。


「…奈落…こいつが」


の村でその名を耳にしてから、忘れることはなかった名だった。そしてこれからも、決して忘れることはないだろうと、水憐は思う。奈落がを、苦しめ続ける限り。


「殺生丸様、ご機嫌麗しゅう」
「下衆が」
「水憐様、お初にお目にかかります、わたくし、奈落と申します」


水憐は、奈落が自分の名前を知っていることに驚いたが、相手の調子に乗せられるわけにはいかない。できるだけ平静を装って、奈落を鋭く睨み付けた。


「何をしに来た」
「水憐様に協力して頂きたく参りました」
「協力?」
「竜王の宝玉とを、引き渡していただきたい」


その言葉を聞いた瞬間、水憐と殺生丸の目つきが変わった。

「そんなこと、すると思うのか?」
「ええ、水憐様なら承諾してくださると思っております」


そう奈落が言った瞬間、強い瘴気の風が吹き付ける。その風に揺られた水面の睡蓮はすべて枯れ果て、当たりの木々さえも色を失ってしまう。殺生丸と水憐がそれに気を取られている隙に、奈落は湖の淵まで駆け抜け、湖を背に二人を振り返った。


「この奈落の瘴気、この湖に注げば…さて、中にいるものはどうなるか…聡明な水憐様ならきっとおわかりでしょう」
「奈落…貴様!」
「竜族の同胞を助けたいのなら、方法はただ一つ。宝玉とを、差し出すのです」
「そんなことをしたら、中で寝ているもただではすまんぞ」
「我が手におさまらぬなら、殺してしまうのもまた一興。それに、が死んでも宝玉さえ手に入れば、わたくしはどちらでも構わないのですよ」
「宝玉も、あれは使用者の妖力を吸い上げるものだ。貴様が求めるようなものではない」
「いいえ。吸い上げた妖力が土地の力になるということは、逆に「土地の力をすべて自分のものにすることも可能」。私はその力がほしいのです」
「ッ…」


奈落が低く笑みを漏らし、じりじりと湖に近づいていく。…近づくたびに、水憐の顔が少しずつ険しくなっていく。


もちろん、も宝玉も、簡単に渡すことなどできない。だが、竜族の仲間を見捨てることも出来ない。今この状況を打開できる策がないか、とにかく頭を巡らせる。


「貴様は一体何のためにを狙う?夢見師の力を欲しているのか?」
「はい、水憐様。私は夢見師の力がほしい。だから、を渡していただきたいのです」
は自分の夢見の力をよく理解していないようだったし…最近夢見の力に目覚めたと言っていた。夢見師の一族でない可能性もあるのだぞ」


そのことは、実は水憐自身も気になっていたことだった。水憐の知っている夢見師はみな用心深く、自分たちの里を結界で隠し外界から途絶していると聞く。事実、水憐が幼いころに見た夢見師も、結界に閉ざされた里からやってきたように記憶している。その力を欲するものが多いことを自覚しているからこそ、警戒を怠らない一族のはずなのに、なぜ普通の村娘として暮らしていたのか。


「いいえ、水憐様。私は確信しています。は夢見師であると」
「なぜそう言い切れる」
「それは、貴方様が知ったところで意味のないことです」


時間稼ぎの会話にしびれを切らしたのか、奈落が湖の中へと手を沈める。


「さあ、水憐様、ご決断を」


万事休す。水憐がぎりりと唇を噛みしめる。奈落はそれを見て低い笑いを漏らした…が、突然湖の方を振り返った。水憐と殺生丸も、同時に湖の方を見る。…ものすごい速さで、何かが近づいてくる。


それが何か気が付いた奈落は水に沈めた腕を触手のように伸ばし、瘴気を振りまき始める。だがその直後、奈落の体が何者かに勢いよく弾き飛ばされ、湖から引き離された。


「殺生丸!水憐!」


湖から現れたのは、阿吽に乗ったと邪見、夢現のりんと、その阿吽をものすごい速度で引っ張り上げてきた火竜と風竜だった。


!間に合ってよかった!」
「ごめん水憐!りんちゃんが全然起きてくれなくて、引っ張ってくるのに手間取っちゃった!」


湖から上がってきた勢いで飛び上がっていた達は、湖を守るように奈落と湖の間に降り立った。低くうめきながら体を起こした奈落は、忌々し気にの方へ顔を向けた。


「なぜだ?!会話する暇はなかったはず…」
「俺、こう見えても結構繊細な術が得意でなァ。水がありゃどこでも、周囲の様子を映し見ることができるんだよ」


火竜が得意げに手で丸を作って覗くような動作を見せる。


「そうして貴方の企みをいち早く知り、私が様達に外へ出るようお願いしたのですよ」
「ね、ほんと意外よね?風竜の方がそういうのは得意そうなのに、実は火竜の方が得意だなんて」
「ああ…その二人は昔からそうなんだ…」


こんな状況にもかかわらずあまりにのんきなの言葉に、水憐は思わず苦笑いを漏らした。…だが、これで奈落と戦える。湖に漏れ出た瘴気は大した量ではないし、とりんがいない以上湖の中にいるのはすべて同じ竜族、多少の瘴気で死ぬことはない。


「さあ奈落…形勢逆転のようだな」
「この私と戦いますか…水憐様」
「もともと、を陥れるような輩と話をする義理はない」


水憐は、ゆっくりとした手つきで蒼憐牙を抜いた。殺生丸も、持っていた闘鬼神を構えなおす。


殺生丸と水憐が、同時に奈落に斬りかかる。奈落は飛び上がってそれを避けるが、避けた先には火竜、風竜が待ち構えていて、二人の剣が同時に奈落の体を地にたたきつける。


「荒事は私の得意分野なんですよ」


風竜はそういうと、奈落の体に向かって剣を突き立てる。それを奈落はぎりぎりのところで避けたが、その先には…が、雨月刀を構えて立っていた。


「私、絶対…あなたを許さないから!!」


雨月刀を奈落に向かって振り下ろす。ようやく奈落を捉えた…と思いきや、寸でのところでの攻撃は結界に阻まれてしまった。はそれでも、何とか結界を破ろうと攻撃を続けるが、結局は弾かれ、体が後ろに吹っ飛ばされた。そんなの体を殺生丸が受け止める。


結界に包まれた奈落は、宙高く浮かび上がっていた。


「……水憐様、前竜王、水霊神の死因はご存知ですか?」


不意の奈落の言葉に、水憐はぴくりと顔を歪めた。


「どういう…意味だ」
「水霊神は貴方が不在の時、ここからすぐの崖で何者かと争い、その傷が原因で亡くなった」
「なぜそれを…!? まさか!」


気味の悪い笑みが、低くあたりに響いた。


「この奈落が殺しました。貴方様の父上を」
「っ…貴様っ!」


水憐は、体がかっと熱くなるのを感じた。怒りに任せて飛び上がり、奈落の結界に斬りかかる。だがその瞬間、瘴気の霧が結界から湧き出て来て、水憐はもろにその霧を浴びてしまい、その場を退いた。奈落の体を包んでいた結界が光を放つと、空に飛び上がって、そのまま姿を消した。


殺生丸は追いかけようと臭いを探ったが、強い風が吹きぬけて、わからなくなってしまった。


「―――…っ…あんな奴に…!」
「水憐…」


水憐が地面を殴りつける音が響く。彼は、唇を強く噛締めていた。


は彼になんと声をかけていいかわからなかった。自分の父親を殺された悔しさ。そして奈落を仕留められなかった悔しさ。その気持ちがわかる。それはも感じてきた思いだからだ。だが、はいつも感じる側で、それを見ている側にたったことがない。だから、なんと言っていいのかわからない。


「…おい」


殺生丸の低い声が響き、水憐の胸倉を掴み上げた。


「立て」


ぴしゃりと告げられ、水憐は目を見開いた。それは彼の目に、今まで見たことのない感情が浮かんでいる気がしたからだ。まだ前竜王が生きていたころの、冷めたような瞳ではない。まるで闘牙王のような、強い意志を持った瞳。


「…真の王ならば、それらしい行動をとれ」


そう言うと、水憐から手を放す。そのまま、二度と水憐を見ることなく、水憐達に背を向けて歩き出す。…空が、いつのまにか白み始めていた。


「水憐…」
「ああ、わかっている。…いろいろと、すまなかったな」
「私の方こそごめんなさい。…あのね、私、貴方の代わりに…必ず奈落を倒すから」


強く雨月刀を握り締める。水憐は優しい笑みを浮かべると、の肩を掴んで後ろを向かせ、そのまま殺生丸の方へ押し出した。は一瞬振り返ろうとしたが、小さく首を振って、殺生丸の方に走り出す。


さっさと歩いていく殺生丸。その殺生丸を追いかける邪見に引かれた阿吽と、阿吽の上で眠っているりん。それを追いかけて、の背中は森の奥へと消えていった。


「よろしかったのですか、水憐様」


いつまでもそこに立っている水憐に、風竜が声をかけた。


「惚れていたのでしょう、様に。お引き止めしなくてよかったので?」
「なーに言ってんだよ風竜!うちの大将にんなことァできるわけねーだろ。昔っから奥手のびびりなんだからよ」
「何を言うのです火竜!こんな時だからこそ、奥手な自分を変える好機!好きな女性に好きとお伝えするを持てれば、水憐様は!」
「二人とも黙っていろ」


珍しく、水憐が怒気をはらんだ声で二人をいなす。そんな水憐に二人は軽く顔を見合わせて…そして、いつも通りだと、小さく笑った。






「もう少しゆっくりしてくればよかったのにね」


の言葉にりんが振り向いたので、二人で顔を見合わせて、ねー、と言って、ちらと殺生丸に視線を送る。だが彼が歩を休めることはなく、振り向く様子も言葉を発する様子もない。


は小走りで彼に歩み寄ると、隣に並んで顔を覗きこんだ。


ちらと横目でに一瞥をくれる殺生丸。怒っているわけではなさそうだと思っていたら、彼が握りこぶしにした右手を差し出してきたので、思わず両手の平を差し出すと、その上にころんと何かを渡された。


「…?」
「水憐からだ」
「水憐から…?」


それは、水の底を思わせるような美しい宝石だった。水晶玉のように磨き上げられた表面が、きらりと光を反射して輝いている。 はその宝石を、手の中で転がしたり、空に掲げたりして眺めた後、満面の笑みで笑った。


「これ、水晶かな?」
「…知らぬ」
「今度会ったらお礼言わなくちゃ!…ふふっ、なんか優しくて、安心するね。水憐みたい」


がそういうと、殺生丸はあからさまに不機嫌そうにすたすたとと歩く速度をはやめた。一瞬見送りそうになっただが、慌ててその背中を追いかける。

「な…ちょ、殺生丸!どうしたの!」


の呼びかけにも答えず、殺生丸は振り向かないまま更に足をはやめる。はそれにむっとして、たっと駆け出して彼の前に立ちはだかった。


「ちょっと、歩くの早すぎよ殺生丸!!」


きっ、と鋭い目で彼を見上げる。少し離れたところで邪見が「殺生丸様になんと無礼な!」などと言っているが、そんなことを気にしているほど今のは穏やかではなかった。


「みんなもいるのに何でそんなに急ぐの?何でそんなに不機嫌なの?」


そう問われ、殺生丸は僅かに顔を顰め、から目をそらす。はそれにまた腹が立ってしまって、殺生丸の目線に入りながら「ねえ!」と呼びかけた。殺生丸はそんなを一瞥すると…突然、の手から先程の石を奪い取ってしまった。


「ちょ…殺生丸…」
「やはりこれは渡さぬ」
「え?な、なんで…」


が首を傾げ殺生丸に尋ねるが、彼は構わずに歩を進める。


は眉を潜めながら殺生丸に詰め寄った。


「ねぇ、返してよ。私が貰ったんだよ?」
「返さぬ」
「何でっ」
「何でもだ」


が腕を伸ばして殺生丸から宝石を奪おうとするが、殺生丸の長い腕でそれを頭の上にあげられてしまえば、当然が届くはずがない。背伸びをしても跳んでも掠ることすらなく、ますます腹が立ったは殺生丸の横顔に向かって言った。


「殺生丸の馬鹿ー!」


の最後の手段。悪口。だが、殺生丸は全く動かない。


「ばーか、ばーか、ばーか!あほー!」


ヒクッ。殺生丸の眉が僅かに動く。 だが、それでも耐えている。


「間抜けー、鬼畜ー、甲斐性無しー」


ヒクヒクッ。またも殺生丸の眉が動く。奇跡的にもまだ耐えている。


「あー、もう馬鹿馬鹿!あほ!間抜け!おたんこなすのはげっ」


ピキッ。


殺生丸の中で何かが切れる音がした。
そして。


がんっ


殺生丸の拳が、の頭を直撃した。


「いったぁ…!」
「殺すぞ」
「だって、私がもらったものなのに!」
「…ッ」


殺生丸は舌打ちすると、それまでの進行方向から逸れて逃げようとする。はそれに気づき、りんと邪見に「ちょっと待ってて」と言い残して、彼の後を追いかけた。


こうして二人の攻防戦の幕が開けた。



2005.01.16 sunday From aki mikami.
2019.12.19 thursday 加筆、修正。