彼女


ちゃん、あのね…」
「ん?」


呼ばれて振り返ると、そこには何か言いにくそうにしているりん。…なんとなく言われることがわかって、は僅かに顔を引きつらせた。


りんが申し訳なさそうに顔を向けた先は、もちろん殺生丸だ。ああ、やっぱり…と思いながら、とりんは再び顔を見合わせる。


「…殺生丸様…とっても機嫌悪そうなの…」
「…あー、うん。ね」


出来るだけ声を潜めて言うりんに曖昧な返事を返すと、横目で素早く殺生丸を盗み見た。…振り返ったり立ち止まったりする様子はない。


「…怒ってるのって…いつから?」
「……多分、ちゃんがいなくなってから…」
「だ、だよねぇ…」


アハハ、と乾いた笑いを浮かべる。先ほど合流したばかりの邪見は、少し離れたところで、あたりまえじゃ!と叫んだ。邪見の言うとおり、当たり前だ。のことを探してあちこちを歩き回ったとりんから聞かされていたし、勝手な行動を取ったというだけでも充分彼の怒りを買うことだろう。


「…やっぱ…謝った方が、良いよね…」
「うん…多分…」
「……イッテキマス」


正直ほとぼりが冷めるまで少し時間を置きたいと思っていただが、りんに直接的言われてしまえば仕方ない。緊張と恐怖でぎくしゃくした動きながらも、殺生丸の背中に向けて早足で歩き出す。


なぜか忍び寄るように、殺生丸に近づく。すると彼はぴたりと足を止め、横目でじろりとを睨み付けた。


の中に恐怖がふつふつと湧きあがってくる。 だがはそれを必死に抑えて口を開いた。


「あの…ごめんなさい!」


勢い良く頭を下げると、もう一度、ごめんなさい、と叫ぶ。だが、殺生丸はそれにうるさい、と一言言い捨て、足早に歩き出してしまった。


「っ」


の目が一気に熱くなる。動向を見ていたりんも、おろおろしながらの顔を覗いた。


は流れてきそうになる涙を必死で堪え、再び殺生丸の元へ駆け出し前に回り込むと、今度はしっかりと目線を合わせた。


「殺生丸っ」
「黙れ」
「っ」
「殺生丸様…ちゃん謝ってるのに…!」


とうとう見ていられなくなったりんの言葉にも、殺生丸は一瞥をくれただけで、興味がなさそうに前に向き直る。いつも言葉が少ない殺生丸だが、りんに対してもこんな態度を取るのは珍しい。は涙を堪えながら、無理矢理に笑顔を作って、りんに笑いかけた。


「りんちゃん、大丈夫。私は大丈夫だから」
「何が大丈夫だ」
「っ!?」


そんな強い声が聞こえたかと思うと、殺生丸はの腕を強く掴み上げた。が反射的に顔を上げると、これまで向けられたことのない鋭い双眼と目が合う。掴まれた腕が、ギリギリと痛んだ。


「何が大丈夫なのだ」
「っ…」
「一人で勝手に散歩に出て道に迷い、七人隊と対峙することか」
「っ!」
「なんの力もない人間の小娘風情が、自惚れるな」


掴まれた腕に殺生丸の鋭い爪が食い込むように掠って、ちりりと痛む。思わず手を引くと、目につくのは今殺生丸に掴まれた痕よりも、蛇骨や睡骨と戦ったときの無数の傷。


沈黙が降りてくる。は強く拳を握った。そうでもしなければ、涙が零れてきそうだったから。


殺生丸やみんなに心配を掛けて、脳天気に合流できて良かったと思っていた自分を恥じる。自分で自分の身を守れると、いい気になっていたところもあるかもしれないとも思う。殺生丸の言うとおり、自惚れていたのだ。


今すぐでも逃げ出したかったが、当然それも出来ない。たった今殺生丸が言ったことを、くり返すかもしれないのだから。


が殺生丸一行に加わって暫く経つが、こんな風にあからさまにを叱責する彼は初めてだった。


と殺生丸以外の一人と二匹は、言葉を発することは無かったが、りんは涙目だったし、邪見はおろおろしていたし、阿吽はまさに目線で語ると言うやつで、全員が全員、「いくらなんでも言いすぎだ」と、その目に殺生丸への非難の色を浮かべていた。


殺生丸は小さく舌打ちをすると、ばつが悪そうに目を逸らして歩き出す。はそれを見ることもなく、その場に立ち尽くした。


そこに、す、と阿吽が寄り添うようにやって来て、を己の背に乗せる。その両側を固めるようにりんと邪見が寄り添い、重苦しい雰囲気で主の後ろを歩き出した。






晴天の下で、魚がぱしゃりと元気に跳ねる。だが、の気持ちは未だ晴れることはなかった。


今、達は川岸で一休みをしている。それはただ、殺生丸がそこで立ち止まったからなのだが、まるで泣いているが顔を洗えるように来たみたいだなと、りんは口に出さずに思った。


川の水で顔を洗うの横にしゃがみこんで、静かに声をかけた。


ちゃん、大丈夫…?」


りんの言葉に、は静かに頷いただけだった。少し離れた場所からはバシャバシャと不自然に大きい水音が聞こえている。それは珍しく邪見が二人の分の魚を取ってやると言って、阿吽と一緒に川に入っているからだった。


とりんは、どちらからともなく沈黙し、穏やかな川の流れを見つめる。殺生丸は知らぬ間にどこかに行っているので、内容に気を使う必要はないのだが、なんといっていいのか、何を言うべきなのか、二人ともわからなかったのだ。


子供のりんにもわかっていた、殺生丸の言葉が間違いでないことは。
言い方が強烈だっただけで、反省すべきはの方だとわかっていた。だからこそ、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。


変わらずぼんやりと水面を見つめていると、ひときわ大きな水音が聞こえ、二人そろって顔を上げる。見ると、岩にこびりついたコケで滑ったらしい邪見が、それは大げさに溺れていて、意外と流れのはやい川なので、流されそうになるのを阿吽がひっぱって起こそうとしていた。りんは慌てて立ち上がり、邪見と阿吽の元へと向かう。も一緒に立ち上がろうとしたが、りんに「待ってて」と言われたので一歩出遅れてしまい、少し腰を浮かせただけですぐに元の位置に収まった。


りんの背中を見送ると、の中に強烈な情けなさが湧き上がってくる。子供が即座に動いているというのに、自分は一体何をやっているのかと、悶々とした気持ちになる。そして、先ほどの殺生丸の鋭い目を思い出して、また涙が出そうになった。だが、自分に泣く権利などないと必死に涙をこらえる。戻ってきたりんを心配させるわけにもいかない。


背中を丸めて膝を抱え、膝に自分の顔を強く押し付けた。自分の中の情けない感情を、胸の中に押し戻そうとするように。


そんな状態だから、は自分の背後に現れた気配に全く気が付いていなかった。熱くなった顔を冷まそうとほんの少し顔を上げてようやく、自分の後ろから大きな影が伸びていることに気づく。反射的に振り返って身構える。


そこにいるのは、もちろん。


「殺生丸…」


が呟くと、殺生丸はそれに答えるでも無くの隣に静かに腰を下ろした。その瞬間川に入っていたりんと目が合って、りんがどこか嬉しそうに邪見と阿吽を引っ張って離れていった。


は緊張と恐れで強く脈打つ胸を抑え、殺生丸の隣に腰を下ろした。…また、怒られるのだろうか、そんな不安が頭によぎるが、それを拒否することはできないと、拳を握って殺生丸の言葉を待つ。


沈黙が、二人を包み込む。


言いたいことは山ほどあるはずなのに、言葉が出てこない 。横目でちらりと殺生丸を見るも、彼の方から何か言ってくる様子もない。そうしてしばらく黙っていると、不安や恐怖よりも戸惑いの方が大きくなってくる。


そもそも、怒っているはずの殺生丸が自分から寄ってきてくれることなどあるだろうかと、ふと考える。それも隣に座っているなんて、彼の行動の意図は不明だが、こんな機会は二度と無いかもしれないとも思う。


これはもしかして、謝る機会をくれているのかもしれない。そう思ったは、もう一度ちゃんと謝ってみよう、そう決心する。体ごと殺生丸に向き直り、彼の横顔を真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「……あ、あの」
「…」
「あの!」
「…傷は、痛むのか」


の口がごめんなさい、という言葉を紡ぐより早く、殺生丸が呟いた。予想外の言葉には口をぽかんと開けたまま、え?と素っ頓狂な声を出す。


「腕の傷は」
「え、あ、ああ、えっと…?」
「…爪が、刺さっただろう」


自分の右手を見ながら、どこかぼんやりとした口調で言う殺生丸。言われたはハッとして、先程掴まれた腕を見やった。だが、確かに爪があたりはしたが、刺さったというよりは軽く擦れただけなので、ほんの少し皮が剥けて赤くなっているだけだった。それよりも、蛇骨達と戦ったときの刀傷や擦り傷の方がよほどひどい。


「全然、痛くないよ。少し皮が剥けたくらい」
「…そうか」


ぽつりとそう零してから、の腕を掴む殺生丸。今度は先程のような強い力ではなく、優しく包み込むようにして、少し皮が剥けたところを親指の腹でするりと撫でる。


その仕草と殺生丸の目があまりに優しく見えて、は殺生丸から目が反らせなかった。普段怒り以外の感情があまり読み取れない彼の顔から、こんなにはっきりと感情が伝わることが、珍しくて、嬉しかった。


心配してくれてるんだ。は素直にそう思った。


「殺生丸…心配かけて、ごめんね」
「…もう良い」
「…ん」
「これで、相子だ」


そう言いって、の腕をちろりと舐める。それがくすぐったくて、胸の中に何か熱い感情がこみ上げてきて、顔が見る間に赤くなっていく


顔を上げた殺生丸の目を直視できずに、片手で口を覆った。


「…なんだ」
「いや…なんか、夢みたいだな、って」


殺生丸の優しさが、こんなに近くにあること。それが、自分に向けられていること。


まるで少しずつ沸騰してくる水のように、目の奥が、鼻が、熱くなるのがわかった。そしてつぅっと涙が頬を流れると、は震える手で何度も何度も目を擦り拭う。


なぜ泣いているのか、自身にもよくわからなかった。止めようと思ってもうまくいかず、意味もなく首を振ったり唇を噛み締めたりしてみるも、やはり止まることはない。


そんなの頬に殺生丸の右手が優しく触れ、涙を拭う。それからその手を後頭部に回して、ぐいっとを引き寄せた。


「夢じゃ、ないよね」


がかすれた声で言う。
そしてまた、はらっと涙を流す。


小刻みに肩が震えて、 の髪がさわさわと揺れる。本当によく泣く女だと思いながら、殺生丸はの耳に唇を寄せて、呟いた。


「夢では、ない」


その声が、の頭の中で優しく響く。


「夢などでは、ない」


耳から入った優しさが、体中に染みわたっていくような感覚に陥って、は静かに目を閉じた。


そしてひと言。
心の中で呟いた。


――――――私、殺生丸が好き。



2005.01.23 sunday From aki mikami.
2020.03.13 friday 加筆、修正。