霊水


涼やかな水音は、まるで誘ってくるかのようだと思いながら、 はぐるりと辺りを見回す。だが、予想に反して殺生丸の姿は見当たらず、深く溜息をついた。


霧の中に目を凝らしても、当然の視力では姿どころか影すら見えてこない。仕方なく、自分のすぐ横に湧き出ている小さな泉を見やった。


水はとても清らかで、魚や生き物の姿はない。不思議なことに苔などもあまり生えていないようだった。泉の脇に察知されている古ぼけた水車が、半分腐り落ちて佇んでいる。


少し考えてみると、殺生丸がわざわざここを目指してくる意味がわからなかった。きっとこの水の匂いをたどれば会えると思っていたのは間違いだったかもしれないと、少し後悔する。


だが、後悔しても仕方ない。にはこれ以上殺生丸を追いかける手段もないので、りん達のところに戻ろう、…と、思ったが、ゆらゆら揺れる泉を見ていると、もう少しここにいてもいいかという気になって、泉をそっと覗きこんだ。


ゆらゆらと揺れているのに、自分の顔がはっきり映っている。見た目は普通の水なのに、なにか特別な水のような気がして、は水をすくい上げてみようと水面に手を伸ばした。と、そのとき。


突然自分以外の顔が映りこみ、は驚いて慌てて振り返る。だが、そこにいたのはよく見慣れた人物で、ほっと胸を撫で下ろした。


「殺生丸…驚かさないでよね」
「お前がそこにいるのが悪い」


そう言うと、殺生丸はの隣に並んで立った。


「なぜここにいる」


淡々とした口調だが、怒ったり機嫌が悪そうな様子はない。は少し笑って、泉を眺めながら言った。


「何か…ちょっと気になって」
「気になる、だと?」
「うん。なんか殺生丸、無理してるように見えたから」


私の勘違いだとも思ったんだけどね、と付け足すが、僅かに顔を顰める。怒らせてしまったかと思いながら、 は慎重に言葉を続けた。


「殺生丸が頼りなく見えたとかじゃないの。ただ、私が勝手に不安になって、勝手についてきただけ」


はそう言うと目を細める。もう一度殺生丸が怒り出したり不機嫌になったりする様子がないのを確認すると、泉の水を手の平ですくい上げながら言った。


「腕…痛くして、ない?」
「…」


沈黙がおりてくる。


の言葉に、殺生丸は答えなかったが、少し嫌そうな顔をしている。にして見れば、それは彼がの言葉に肯定した、と言うことで、そう思うと少し眉を釣り上げた顔が拗ねているように思えて、妙に可笑しかった。


「腕、見せて。手当てくらいは出来ると思う」
「…必要ない」


そう言って殺生丸は、の隣に腰を下ろす。何をするのかとじっと見ていると、自分の着物の袂を口でまくり上げようとしているようだ。だが、左腕がない分口だけではなかなかうまくいかないようで、はくすりと笑うと、自分の懐から普段たすきがけに使っているたすきを取り出して、殺生丸のたもとをまくり上げた。

の動作に一瞬振り返った殺生丸だったが、特に拒否したり文句を言ったりすることはなかった。


「これでいい?」
「…ふん」


先ほどと同じ少し拗ねたような顔で、さっとから顔を背ける殺生丸。そのしぐさにまた笑ってしまいそうになったが、あまり機嫌が悪くなると困ると思い、何とかこらえる。


「で、どうするの?」
「…こうする」


そういうと、腕を静かに水にひたす殺生丸。その瞬間殺生丸の腕がぼうっと淡く光り出した。


「…光ってる」


優しく包み込むような輝きに、思わず目を奪われる。やがてゆっくりと光が弱くなっていき、完全になくなったところで、殺生丸はゆっくりと腕を水から上げた。


ひじから下を鞭のようにふるって水気を飛ばしている殺生丸。その動作には、先ほど感じた違和感は全くないし、当然痛みを感じている様子もない。


「あの、殺生丸…この水…」
「この水は、霊水だ」
「霊水?」
「高い治癒力のある水だ。人間どもは不老長寿の水だのと抜かしているようだがな」
「治癒能力ってことは、殺生丸の腕は…」
「もう直った」
「うそ…」


驚いた表情で彼の腕を掴み、曲げたり伸ばしたりさせる。そんなに、ほんの僅かに眉を潜める殺生丸。別に掴まれたことがいやというわけではないが、なぜだか落ち着かない気持ちになって、しかめ面のまま静かに声をかける。


「…おい」


よほど驚いたのだろうか、が反応する様子はない。何かに没頭すると周りが見えなくなることがあるのは知っていたが、さすがに目の前で無視を決め込まれると、いらつくような気持ちがあって、殺生丸は自分の腕ごとを乱暴に引っ張り、自分の方に振り向かせた。


突然引っ張られる形になったは、そこでようやく自分が何をしていたか悟る。さらには息がかかるほどの至近距離で殺生丸と目が合ってしまって、急速に頭が沸騰する。


「ご、ごめん!」


真っ赤になりながら、慌てて手を放し数歩後ずさりながら顔を思い切りそらす。そこまでの動作をほんの一瞬でこなしたに、殺生丸はなぜだか、少し面白くない気持ちを覚えた。


俯いたまま一言も喋らない。喋らないと言うよりは喋れないのだが、殺生丸がそんなの気持ちに気づくはずもない。ずっと黙ったままのにまたいらついて、殺生丸は深く溜息をついた。


なぜいらついているのかと聞かれたら、明確な答えが見つからない。のおかしな態度にいらついていることは間違いないが、それがなぜなのか、殺生丸自身もわからなかった。


なんとなくそのいらつきを知られるのがいやで、特に何も言わないまま、歯を使って器用に袖を止めていたたすきを外した。
外したたすきを右手に持ち直して、ずい、とへさし出す。


「あ、ありがと…」
「何故お前が礼を言う」
「あ、そっか…」


殺生丸に言われて、少し困ったように笑いながらたすきを受け取る。たったそれだけの動作でも顔を見合わせるのが恥ずかしく思えて、ふっと殺生丸から顔をそらした。


一度好きだと意識してしまうと、ほんの少ししたことでも気になって仕方がなくなるのだが、殺生丸はそんなことを知る由もないこと。は首を数回振ると、両手で顔を覆って大きく息をつく。するとそれを見た殺生丸が、を睨むように見やった。


「なんだ」
「…へっ?!」
「今、溜息をついただろう」
「あ、と、溜息って言うか…」


が返答に困り苦い顔をする。両手で顔を覆ったまま前屈みになっているを見て、殺生丸は小さく息をつく。なぜかは分からないが、は自分と目を合わせるのがいやらしいことは分かる。の行動の真意がわからないことにも、そんなにいらついてしまう自分自身にも腹が立って、殺生丸はの頭に手を添えて、無理やり自分の方を向かせた。


「っ」


の顔が急速に熱くなって、頬が紅潮していく。その変化はさすがの殺生丸にもわかるほどで、彼そのあまりの急速な異変に僅かに目を細めた。


はそんな殺生丸から目線だけをなんとか外して、絞り出すような声でいう。


「あの…近くて…恥ずかしい、です…」


その言葉を聞いた瞬間、殺生丸の手から力が抜けた。そんなことか、と拍子抜けしたのと、なぜそんなことを思うのか理解できず戸惑う気持ちに、の頭から手を放す。その瞬間はその場で殺生丸に背を向けた。


そんなに対して、なんとなくいたずらっぽい気持ちが湧いたのは、ただのきまぐれだった。いつも困らされている分、困らせてやろうという気持ちもあったかもしれない。


いずれにしても、自分に対して背を向けるに一歩忍び寄り、額を包むように自分の方へ引き寄せた。は突然の事に驚き、短く声を上げる。そして、殺生丸が自分の髪に顔を埋めるように、深く呼吸しているのが分かって、体温が上がり続けて頭がくらくらし始める。もしかしてからかわれているのかもしれない、とも思うが、それを口に出して聞くのも恥ずかしく思ってしまう。それに、何かをしゃべったら、今のこの恥ずかしくも幸せな時間が終わってしまう気がして、なおさらしゃべりだすことが出来ない。


このまま時が止まればいいのに。


殺生丸の大きな手が、の頭を優しく撫でる。何度も何度も、大切なものに触れるかのように。


はやんわりと目を閉じて、その優しさを感じていた。



2005.01.27 thursday From aki mikami.
2020.08.20 thursday 加筆、修正。