白霊山の麓にて
殺生丸とは、白霊山の結界の前まで来ると、二人同時に歩を止めて、結界を見上げた。
「…なんか、邪気が…」
が言いながら殺生丸を仰ぎ見ると、彼はわかっていると言うようにを一瞥した後、再び結界に視線を戻した。
「結界が、弱くなっている」
「…え?」
殺生丸の言葉にはもう一度結界を見やる。二人の後ろでは邪見が、「おぉ!本当だ!」と表情を明るくしているが、それと反対に、の顔は暗く重くなっていった。
「この邪気…結界の中から…」
「結界の内側には、妖怪がいる」
「えっ!」
の驚きは、なぜ結界の中に妖怪がいるのか、ということと、なぜ結界の中に入れないはずの殺生丸がその事実を知っているのかという二つのことからだったが、そのうちひとつはりんの「りんが殺生丸様に教えたんだよー!」という言葉ですぐに解決した。あとは、「なぜ結界の中に妖怪がいるのか」。
その疑問の答えを促すように再び殺生丸を上げると、彼はに視線を合わさぬまま、ゆっくりと口を開いた。
「この結界の中に、奈落がいる」
「っ!?」
「七人隊が結界の中に入っていったのが、その証拠だ」
「け、けど、奈落にはこんな清浄な結界、はれるわけが…」
言いながら白霊山の方に視線を送ると、その先に白い影がちらついた。は影の正体を確かめようと目を凝らす。
「桔梗様!」
は言いながら走り出そうとしたが、殺生丸はそんなの腕を掴んでそれを制止する。先ほど自分の行動で殺生丸を怒らせてしまったことを思い出して、も足を止める。それでも、桔梗を追いかけたい気持ちは止められなくて、は強い視線を殺生丸に向けた。
「殺生丸、行かせて!」
「何故だ」
「それは…気になるんだもの」
自分の言葉に何の説得力もないのが分かって、情けなさに顔を俯ける。当然のように邪見が後ろでふざけるな!とを怒鳴りつけたが、殺生丸はそれを黙れ、と一言で諫めると、その鋭い双眸での目を見つめた。
「お前のその行動は、私を待たせてまでする価値のあるものなのか」
「…わからない。でも…桔梗様は奈落の事を探っているようだったし…何か知っているかも」
なんて曖昧なんだろうと、言いながらは顔を俯ける。確かに桔梗が奈落の事を何か知っている可能性は高いが、それでも可能性の話だ。確かな話でもないのに、殺生丸を付き合わせるのは、邪見の言葉じゃないがなんて無礼なことだろうと、は思った。
結局は、自身のために他ならなかった。桔梗の儚さや憂いを帯びた表情が、どうしてもを放っておけない気持ちにさせる。けれどそれは、殺生丸には何の関係もないことだ。
だから、殺生丸の次の言葉を聞いて、は目を見開いて驚いた。
「長くは待たぬぞ」
「え!」
「なぜ驚く。お前が言い出したことだ」
「そ…そうだけど…」
「早くいかねば見失うぞ」
「っ! ありがとう殺生丸!」
瞬間明るい表情になり、桔梗が見えた方向へ走っていく。殺生丸は僅かに目を細めると、に背を向けて、ゆるりと空を仰いだ。
その表情は、誰にも分らないくらいわずかに、微笑むように緩められていた。
「もう…良いのです」
桔梗が切なげな表情でそういうと、、即身仏は淡い光になって消えた。その瞬間、凄まじい音と衝撃が白霊山から聞こえた。
白霊山を包んでいた結界が消え、おびただしい数の妖怪が沸いて出てくる。桔梗は矢を構え、妖怪達へと放った。
「桔梗様!!」
「!?」
聞き覚えのある声に振り返ると、が走り寄ってくるのが見える。桔梗は手を止めないまま口を開いた。
「、なぜここにいる」
「たまたま、こちらに来るのが見えました。…それより、この妖怪たちは」
は自分に向かってくる妖怪たちを雨月刀で斬り捨てながら、自分の周りをくるっと見回して桔梗に尋ねる。
桔梗は、やはり手を止めないまま答えた。
「聖域が…消滅した」
「っ!」
「結界の中にいた妖怪達が出てきたんだ」
桔梗の放った矢が妖怪達を蹴散らしていく。も手近な妖怪たちを切り払いながら、言葉をつづけた。
「では、やはり奈落は白霊山に…?」
「ああ」
予想はしていたものの、驚きを隠せない
。早く殺生丸に知らせなければと思うが、大量の妖怪たちが向かってきているため、それをどうにかしなければその場を動けそうにはなかった。攻撃する手は休めないで、桔梗と背中をあわせる。
「今はとにかく、この妖怪たちをどうにかしなくちゃ」
「そうだな」
そう言うと、二人は同時に攻撃を繰り出す。妖怪の数はまだまだ減る気配はなかった。
「っ、は…はっ…」
「、もうばてたのか」
「ちょっと…疲れました」
周りに妖怪の姿が見えないことを確認すると、地面に座りこむ。一方疲労した様子のない桔梗は、に僅かに苦笑すると、白霊山を見上げた。もその視線を追って、同じように白霊山を見据える。
「結界がなくなっても、清浄な気はそのままですね、この山」
きっとまだ殺生丸たちにはつらいのだろうとが思っていると、桔梗は難しい表情で、だが、と言葉を続ける。
「…何かが可笑しい…この山」
「…え?」
「妖気が…」
桔梗が探るように山を見ているので、も意識を白霊山に集中する。そうして間もなく、ぞくりと寒気にも似た感覚がを襲った。
「なんか、妖気が巡っているみたい…白霊山の中を」
の言葉に、桔梗が目を見開く。なにか思いつくことがあったのか、すぐに白霊山に向けて歩き出す。
「き、桔梗様!」
の声かけに、桔梗は足を止め振り返る。なんだ、と先を促されるものの、自身にもなぜ声をかけてしまったのかわからず、えっと、と口ごもったまま桔梗と見つめあう形になった。
何か言わなければと思うし、何か言いたいことがあるような気もするが、うまく言葉が出てこないでいる。桔梗は最初そんなを訝しんでいたが、やがての心情が分かったのか、優しく微笑みながら、座り込んでいるの前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫、きっとまた会えるさ」
「あ…」
「今度会ったら、聞かせてくれ。夢見師の村のこと」
「は、はい!」
桔梗はの言葉に満足そうに微笑むと、ゆっくりと立ち上がり、再び白霊山に向けて歩き出す。そんな桔梗に何かを言いたくて、は待って、と言いながら桔梗を追いかけた。桔梗はすぐに足を止め、不思議そうにを振り返る。
は自分の懐から、桜模様の髪飾りを取り出して、桔梗に差し出した。
「あの、これ…お守り代わりにもっていってください」
の言葉に、桔梗は驚いた表情を見せる。は咄嗟におかしなことをしてしまっただろうかと少し恥ずかしく思いながら、それでもその手を下げることなく言葉を続けた。
「この髪飾り、昔おじいさんにおねだりして買ってもらったものなんですけど、これを持っていると、不思議と心が落ち着くんです、だから、あの…」
俯きながら言葉に詰まってしまったに、桔梗は静かに微笑むと、その手に乗せられている髪飾りを受け取った。咄嗟に顔を上げたと目線を合わせ、もう一度、静かに笑う。
「良い物を貰ったな」
「え?」
「お前の霊力が込められている」
「え…本当ですか?」
自身は霊力の制御がうまくないので、霊力が込められているといわれても全く覚えがない。それは、自分を守ってほしいと願うの思いが、無意識のうちに髪飾りに霊力を込め、結果としてお守りのような役割を果たしていた、ということなのだが、自身はその事実にも当然気づいていない。一方、桔梗はそんな事実にすぐに気づき、だがそれをに告げることはなく、ただ手の中のお守りをじっと見つめた。
「久しいな」
「…え?」
「誰かに贈り物をされたのは…久しぶりだ」
そういった桔梗の表情がどこか儚げに見えて、は胸が押しつぶされるような気持になった。自分とそう変わらない歳のはずの女が、一体どうしてそんな表情をするようになったのか、その過去を思うと、切なくて涙が出そうになった。そして、桔梗のそんなところがどこか自分と似ているような気がして、それが桔梗を放っておけない理由なのだと、はようやく悟った。
「贈り物くらい、しますよ。…友達に、なりたいですから」
「…友達?」
「はい」
それは、自身がずっと求めていたものだった。自分を理解してくれるもの、自分を友と呼んでくれるものを、ずっと求めていた。そして、桔梗がその友であればいいと、今は心の底から思っていた。
のまっすぐな目を見つめながら、桔梗は口を開いた。
「友ならば、敬語を使う必要はないな」
「へっ」
「桔梗様、などと呼ぶ必要はないだろう。呼び捨てで良い」
「あの、えっと…いいの、かな」
「普通に喋ろう。…友達なのだろう?」
そう言って、桔梗は照れたような、すこしいたずらな笑みを浮かべた。その顔は、いつもの儚げな表情ではない、年相応の少女の顔に見えて、は元気良く頷いて、満面の笑みを浮かべた。そんなに桔梗も微笑み返す。
だが、今はゆっくり親睦を深めている時間はない。すぐにいつもの表情に戻った桔梗は、白霊山を一瞥すると、再びに向き直り言った。
「お前は殺生丸のところに戻れ」
「う、うん…でも、桔梗は?」
「私は、私の目的を果たしに行く」
「あの…一緒にはいけないけど…気を付けて、桔梗」
「あぁ」
「とても、嫌な予感がするの」
「…あぁ」
やがて桔梗は、身を翻して霧の向こうへと去っていく。はその背中を見送りながら、彼女の無事を心から願った。
が戻ったとき、邪見と阿吽は依然と同じくどこかぐったりしていたが、殺生丸はいつもと変わらない表情で大岩に腰を下ろしていた。の姿を捉えた途端、鋭い双眸で射抜かれ、はたじろぎながらも、彼の前に立った。
大きく一度深呼吸をして、殺生丸と視線を合わせる。
「ねぇ、殺生丸」
「何だ」
「ただいま」
「っ」
の言葉に、殺生丸は僅かに顔を顰める。これはまずいことを言ってしまったかもしれないと、が顔を引きつらせていると、殺生丸はどこか乱暴に立ち上がりを見下ろした。そして。
「ああ」
そう言いながら、の横を足早に通り過ぎていった。
今のは殺生丸なりの「おかえり」なのだろうか。そう思うと、は自分の胸が熱くなるのを感じた。その言葉は少なくとも殺生丸が、が自分のもとに帰ってくることを受け入れているということ。
私、ここにいてもいいんだ。
そう思えることが、にとっては何よりもうれしかった。
2005.01.28 friday From aki mikami.
2020.11.19 thursday 加筆、修正。