蜘蛛の糸


「っ…!!」


妙な胸騒ぎがして顔を上げた。何か、何かが…とんでもないことが起きているような、いやな予感が。


「どうした」


の異変を感じ取って、殺生丸は振り返る。


「……なんか今、変な感じ…しなかった?」
「いや…」
「そ、そう?」
「変な感じ…妖気か?」
「妖気なら殺生丸も気づくはずよ。そうじゃなくて、なんか…もっといやな感じ…予感が…」


それは、言葉では言い表せない感覚だった。


殺生丸は小さく息をつくと、の肩を軽くたたき、また歩き出す。


「いくぞ」
「っ、でも!」
「とまっていても仕方ない…ならば、歩きながら考えればいい」
「……うん」


普段は勇気付けられる彼の言葉にも、今日はすんなり納得できない。それほどまでにが感じた予感はすさまじくいやなものだったのだ。ただ、彼に逆らうわけには行かない。は黙って殺生丸の後ろをついていった。






かわらに焚き火を作って、とりんと邪見は食事を取っていた。殺生丸は一人はなれた所で星を眺めている。きっと何かを考えているのだろう。


つり上げた鮎を食べきったは、彼のほうを盗み見た。


今朝のいやな予感は、今になっても消えないでいる。何かがまとわりついてくるようで、気分が悪い。は黙って空を見上げた。


空気が澄んでいる。風は穏やかで、川の流れは静かだ。なのに、の心だけが平穏を感じられずにいる。


そのとき、の視界に何かがうつった。…糸だ。細い糸。の右から左にかけて延びている。右には森が広がるばかりだが、左には…


「殺生丸…」


糸は、殺生丸を狙うように彼の後ろ側に伸びていた。


「っ…」


胸騒ぎがした。あの意図は悪いものだと、そう直感する。は勢いよく立ち上がると、殺生丸のほうへかけていった。


「殺生丸…!」


そのままの勢いで殺生丸の背中に抱きつく。何もいわないが、彼も驚いているようだった。


「…なんだ、
「見えて…ないの?」
「何…?」
「……あれ…蜘蛛の、糸」
「蜘蛛の糸?」
「そうよ、…あなたのすぐ後ろに…」


おびえるの肩を抱くようにして振り返った殺生丸は、そこに見えた光景に目を見開いた。


糸が、何本も絡まった糸がに襲い掛かろうとしている。反射的にその糸をつめで引き裂くと、殺生丸はを抱えて空へ舞い上がった。だが。


「っ、きゃあ!」


下にいるりんが叫びだした。その隣には糸に足を引っ張られた邪見がいる。阿吽とりんがそんな邪見を助けようと手を伸ばしかけた。


「さわるな!」


叫んだ殺生丸に、阿吽もりんも上を見上げ、動きを止める。は雨月刀を構えると、殺生丸に支えられたまま落下する勢いで糸に突き立てた。糸が浄化され、青い光を放つ。浄化しきったか、と思ったがその瞬間。


糸が雨月刀を這い上がってきて、の腕に絡み付いてきた。その瞬間、殺生丸に糸が触れるのを何とか避けようとしたは、彼の腕から無理やり抜け出すと、そのまま地面に背中を打ちつけ、意識を失った。






それは、記憶だった。


林檎に口付けている殺生丸。神楽の最後。を置いていった殺生丸。


「――――――っ!」


起き上がったは、自分の額に汗がにじんでいるのに驚いた。右手で額を拭う。すると、上からりんが心配そうに覗き込んできた。


ちゃん!」
「りんちゃん…」
「大丈夫…!?」
「うん…ねえりんちゃん、私より、殺生丸は?」
「殺生丸さま?いるよ!殺生丸様ぁ!」


たた、と駆け出したりんが向かった先には、木に寄りかかって目をつぶる殺生丸。


「殺生丸様ー?」


呼びかけるが返事はない。目を開けることもない。は軋む体を起こして殺生丸の隣まで歩いた。


「殺生丸…?」


普段なら誰かが近寄れば必ず目を開ける殺生丸が、今日は目を開けず、声も出さない。


「……殺生丸?」


彼の隣にしゃがみこんで下から顔を覗き込んだ。


切れ長の目は堅く閉じられている。手は曲げた右ひざの上におかれていて、うなされた様な顔をしている。薄く開いた唇から、小さく声が漏れた。


「…


確かにそう聞こえた。気のせいなどではない。殺生丸が自分の夢を見ているのかと思ったら少しうれしくもなったが、今はそれどころではない。


直感したのだ、先ほどのいやな夢はあの糸が見させたものだと。そしてもしかしたら殺生丸も悪夢を見ているのかもしれないと。


「殺生丸…!おきて殺生丸!」


肩をゆすると、彼はようやく重そうにまぶたを開けた。


「…?」
「殺生丸…よかった、大丈夫?」
「何を、言っている…?」
「え…?」
「それはお前が言われるべき台詞であろう」


そういわれて初めて、は自分が地面に落ちて意識を失ったと認識した。


「大丈夫…ごめんね、心配かけて」
「……なぜ私の腕から抜けた。あれはわざとだろう」
「殺生丸に糸が絡んじゃいけないと思ったから」
「私の身を案じて…か。随分となめられたものだ」
「っ!そんなつもりじゃ…!」
「自分の身も自分で守れぬくせに…、相変わらず人のことばかり気にかけるのだな、お前は」


殺生丸の手がまっすぐまで伸びて、髪をすくいあげる。魚が泳ぐような滑らかな動作で、そのままの頬へと触れた。


「…何を見た」
「え?」
「お前も私と同じ…夢を見たはずだ。何を見た」
「どうして私が夢を見たってわかるの…?」
「あの糸は奈落のものだ。…悪意を注ぎ込んでお前を汚すのが目的だろう。だから何かそれ相応のことがあるはず…お前の心の闇を掘り返すような」
「っ…」


まさか、貴方が他の女といる夢ですとは言えずに黙り込んだに、殺生丸は小さくため息をついた。二人の険悪な空気を感じて、りんが邪見と阿吽のほうへ逃げていく。


「まぁ、大体想像はつくがな」
「え…!」


予想外の発言に思わず大声を出したに、殺生丸は訝しげな目を向けた。


「…なんだ」
「いや…べ、べつに」
「どうせ、住んでいた村が襲われたときのことか、誠の右目がつぶされたときのことだろう」
「え…」
「違うのか」
「ち…違…わ、ないよ…」


本当は違うのだが、彼が勘違いをしてくれてるならそれに越したことはない。そう思っただったが、どうやら違わないといったに対して、殺生丸はしっかりと違和感を感じ取ったようだった。


「…違うようだな」
「えっ、な、なっ、…なんでっ…!」
「明らかに動揺している。それに目が泳いでいる」
「うっ、あー…えっとその…、あ、えっと、殺生丸は…!殺生丸はどんな夢見てたの?見てたよね!寝言言ってたもん!」
「っ!」


これ以上追求されないように逆に質問し返したの言葉に、殺生丸はひどく驚いた。どうやら自分が寝言を言っていたところに少しの恥ずかしさを感じているらしい。


「なんと言っていた」
「えっ…え?」
「なんと言っていたと聞いている」


私の名前です、とはなんとなく恥ずかしくて言い出せない。だが殺生丸はそれだけで十分、彼女の心の内を読み取ったようだった。


「―――…お前の夢を見ていた」
「え…?」


唐突にそういった殺生丸は、空を見上げていた。


「…お前が…お前が私の元を離れて犬夜叉の元へ行くときのことだ」
「そ、それって…」


どういう意味? 犬夜叉のことを恨んでるってこと? それとも私のことをうらんでるってこと?


そう聞くことが、にはできなかった。返事を聞くのが怖かったのだ。


「そう…」


ただそう答えることしかできない。そして殺生丸はそんなの心境に気づかない。


「私も…実はね、殺生丸の夢見たんだ」
「……私の、夢」
「殺生丸が、…神楽の最期を看取ったあの日の夢。私ね、あの時奈落の水鏡で殺生丸のこと見てたんだよ。…他にもいっぱい見たんだけどね、それが一番頭に残ってる」


はそれ以上、何も言わない。それ以上は言いたくないのだろうと殺生丸は思った。の瞳は彼女の足元に注がれている。


「…私を恨んでいるということか」
「まさか。もしそうなら今、一緒にいないよ」
「…そうか。 …確かにそうだな」


「……え?」


その言葉をどう取ればいいのかわからず、は顔を上げた。


「そ…れは、どういう意味…?」
「そのままの意味だ」


と返した殺生丸は、怪訝な表情を浮かべる。


そう、まさか殺生丸がの心のすべてを読み取っているはずがない。ましてや殺生丸の夢のことで傷ついていたなど。だが彼の何気ない言葉は、今のにとって何よりうれしかった。


―――私は今お前と一緒にいる、それがお前に悪意を抱いていない、何よりの証だ


そういわれているような気がした。


「…ありがとう、殺生丸」
「……何がだ」
「んー?なんでもなーい」
「随分機嫌がいいな」
「うん…ちょっと、安心しちゃったから」
「安心…?」
「うん」


くす、とひとつ笑って、殺生丸の肩に寄りかかる。彼のほうからさりげなく重なった手は、少しずつ温かくなっていく。


「ねえねえ、私たちって奈落に勝ったのかな?」
「…そういうことになるのだろうな」
「そっか…なんかうれしい」
「よかったな」
「うん!」


頷きながら、は不意に思った。


犬夜叉は、かごめは、七宝は、弥勒は、珊瑚は、雲母は、―――そして桔梗は、大丈夫だろうかと。同じような目にあってはいないかと。


ざわりと、いやな胸騒ぎがした。



2006.12.16 saturday From aki mikami.