水鏡の向こう


梓山の中で起こっていることが本当に"これ"ならば、今は一体"どういう"状況なのか。にも殺生丸にもわからなかった。…ただ一つ言えるのは、かごめも蜘蛛の糸にかかっているということ。


…これはどういうことだ」
「と…私に聞かれても…」


困る、と返そうとした瞬間水鏡の中に現れたのは、桔梗の顔をした人間…と思ったが、再び水鏡が大きく揺れて、その人物は白い服を着た、顔のない人形へと変化した。


「っ…これ…」
「……そうか、梓山の精霊」
「え?」


殺生丸は一人で納得しているが、には何が何だかわからない。すると隣で見ていた邪見が憤慨した様子で言った。


「何を言っておる!梓山の精霊と言えば、相手の心を試す!それくらい知っておれ!」
「え…?あ、ごめん…」
「邪見、だまれ」
「はっ、私は何もしゃべっておりません!」


そんな嘘をつく邪見だが、殺生丸はそれをまったく聞かずに、何かを考え込んでいる。それに気づいたは、彼の心を探るように表情を伺い見た。


「…桔梗と言う巫女は、奈落の瘴気の傷で苦しんでいたな」
「え?う、うん…」
「その傷が、今も残っていると言うことだろう」
「え…今もっ!?」
「それほど奈落の恨みが深いと言うことだ。…この巫女、死ぬかもしれぬな」
「なっ…!」


殺生丸の言葉でが目を見開いた瞬間、水鏡が大きく揺れた。集中がとぎれ、消えようとしている。は慌ててそちらに意識を向けたが、寸でのところで水鏡は消え、水面は二人の顔を映し出していた。


はもう一度、水鏡を映そうと試みる。だが、突然殺生丸の手がの右手をとらえ、それをとめた。


「っ、殺生丸…なんでっ!」
「これ以上長く力を使うな。…倒れる」
「!」
「運ぶのは面倒だ」


そう言って、から目を逸らした。そうだ、殺生丸様に迷惑をかけるな!と邪見が叫ぶ声に、足元の石をぶつけて立ち上がる。


「…殺生丸…ありがとう」
「……意味がわからぬ」
「それでもいい。…ありがとう」
「…ふん」


素っ気ない返事を返す殺生丸に、は小さく微笑んだ。


彼が気遣ってくれている。そのことがとても嬉しくて、すこしだけ、不安な気持ちが吹き飛んだ気がした。






呼ばれたような気がして、は顔をあげた。…だが、そこには相変らず眠っているりんと琥珀。殺生丸はむこうの草の中に立っていて、邪見は阿吽にもたれかかっていた。


気のせい、なのかもしれない。だが、確かには声を聞いたのだ。


そっと目を閉じて、耳をすました。


『―――…
「っ、桔梗…!」


確かに聞こえる。これは桔梗の声。


『―――…会いに来い、
「っ!」


勢いよく、その場に立ち上がった。今の声は間違いなく、桔梗のもの。そして、に会いに来いと言っている。


「―――行かなきゃ」


足元の雨月刀を拾いあげ、脇目もふらず走り出す。その後ろ姿を見ていた殺生丸は、ゆるく目を瞑り、小さな息を吐いた。


太陽が、西側に傾き始めていた。






空を進む死魂虫に導かれてがその場を訪れた時、桔梗の身体には光が集まっていた。胸には破魔の矢、奈落の触手が浄化されている。清浄な光の中に、死魂虫が次々と飛び込んでいく。は崩れた岩場をすべりおりて、かごめと桔梗にかけよった。


「かごめちゃん!」
ちゃん!なんでここに…!」
「…桔梗に呼ばれて…」


視線をやると、桔梗は奈落を睨みつけていた。桔梗の霊力が、奈落の邪気と四魂の玉を押し戻し、浄化していく。奈落が張った瘴気の幕も突き破って、奈落の心臓に破魔の矢が突き当たった。


奈落の体が、桔梗の力で少しずつ崩れていく。鋼牙の足を捕らえていた力も弱まり、犬夜叉に引っ張られてその場を脱した。だが、その間際に四魂の欠片を取られてしまった。


黒く汚れた四魂のかけらを取り込む奈落。だが、それでも苦しそうに顔を歪めている。


「桔梗…見える?奈落が苦しんでる…」


くっ、と低いうなりをあげた。…だが。


「かごめ…あとはおまえが…」
「え…?」


突然何を言い出すのか。にもかごめにも、理解出来なかった。どう見ても、桔梗が奈落を押しているのに。


しかし、すぐに2人は桔梗の言葉の意味を理解することになる。


奈落の体中に走っていた光は消え、突き刺さったはずの破魔の矢は焼け消える。


―――桔梗の力の、限界。


「桔梗…」


つめよるかごめに、桔梗は静かに言った。


「琥珀の…最後のかけら…琥珀の…光を守れ」


は、その瞬間やっと、桔梗に呼ばれた意味が分かった。


…こうなることが、わかっていたのだ。


「かごめ…おまえにしか…できないことだ…」
「桔梗しっかりしてよ、私にそんなこと…」
「……」
「どうしたの桔梗!?弓で撃てば傷は浄化されるって…」


かごめの言葉を聞きながら、桔梗は穏やかな顔をに向けた。
…わかっているだろう、と確認するように。


「桔梗…きさまの負けだ…」


奈落の触手が桔梗に襲いくる。かごめは桔梗に覆い被さってかばい、は雨月刀を構えて二人の前に立った。


迫り来る触手。それを、犬夜叉が竜鱗の鉄砕牙で切り落とす。犬夜叉が鋭く睨みつけたのを見て、奈落は不敵な笑みを漏らした。


「かけらはあとひとつ…。見届けてやろう…桔梗なしできさまがどう闘うか…」


奈落の言葉に、犬夜叉は桔梗を振り返る。


だが―――


「桔梗はわしの邪気に負けた…もう終りだ…」


犬夜叉は、わかっていた。
…風の臭いが教えている。


桔梗は もう 助からない






「琥珀!」


夕日が赤く燃える中に、りんの声が響いた。


「ダメだよ、まだ動いちゃ。毒が抜けきってないんでしょ?」
「戻らなければ…」


琥珀は焦っていた。


「桔梗さまは…弱っていた…今頃どうしているか…」
「危ないよ、琥珀は狙われてるんでしょ?」
「言っとくがな、殺生丸さまに連れていってもらおうとか思うなよっ!」


二人の会話に、邪見がそう言って割り込んだ。


「命を救ってもらっただけでもありがたいと思えっ!これ以上殺生丸さまを煩わせることはこのわしが許さん!」
「頼んでも…ダメかなあ?」


心なしか眉を下げて、りんが殺生丸を見やった。


夕日に煌く白銀の髪が、風にさらりと揺れる。


「―――手遅れだ…」


ゆっくりと、遠くを見つめる。


「え…?」
「……桔梗さまに…なにかあったのですか!?」


琥珀の問いに、殺生丸は答えなかった。視線をりん達の背後へ流すと、す、と右手を空に向ける。それを待っていたかのように、阿吽が空へと飛び上がった。


殺生丸の脳裏に、涙を流すの顔が浮かんだ。






夕暮れが通りすぎ、夜の闇と星々が降りてきたころ。


桔梗をその胸に抱く犬夜叉の姿を見ながら、それぞれ複雑な気持ちを抱えていた。


罪の意識。桔梗を死なせてしまった喪失感と、自分を責める気持ち。


は、少し離れたところに立って、犬夜叉の背中を見ていた。


奈落に引き裂かれてしまった二人。歪んでしまった愛憎。


後悔しても、もう遅い。


…犬夜叉が、桔梗に口付けたのがわかった。ふわりと桔梗の体が光り、一瞬のうちに犬夜叉の腕の中で消えた。そこに残されたのは巫女の服と、…透き通る光。それは、桔梗の魂。


死魂虫が飛んできて、いくつかに別れた光を運んでいく。かごめや、弥勒達の間を通って。…の元にもやってきて、くるりと周りをまわった。


温かな光。は思わず手を伸ばす。すると、一瞬魂がの手の上で止まって、そこに何かを落としていった。


以前が渡した、赤い髪止め。


「っ…!」


堪えていた涙が、一気に溢れ出した。魂がの頭を軽く掠めて、空へと消えていく。


まるでありがとう、と言っているように、には思えた。



2007.02.25 sunday From aki mikami.