浄化


「進むほどに道は崩れ、行き着く先は冥界」
「あの~~~冥界に着けばなにかあるので?」
「なにもありはしない」
「は!?でも…これは天生牙を育てるための試練なのでは!?」
「冥界の真の闇に踏み込んだが最後―――たとえ殺生丸でも二度と戻ってはこられない。ましてや人間の子供ごときの命は、冥道を一歩進むごとに…」


殺生丸の母は、そこで言葉を止めた。背後から気配が近づいてきたからだ。


「…戻ったか、娘よ」


霧の奥からゆっくりと現れたのは、鏡を胸に抱えただった。


「…ただいま戻りました」
「鏡を抱いたまま…その辺に立っていろ」
「はい」


そう答えたに、邪見は妙な違和感を覚えた。


―――ずっと、笑っている。


それに、やけに素直にいうことを聞くし、落ちている雨月刀を拾おうとしない。だが、今はのことより殺生丸の一大事。邪見は必死に、殺生丸の無事を祈った。






『りん…?』


鏡の中で琥珀の声がして、は俯けていた顔をあげた。


『殺生丸さま…りんが…息をしていない…』


その言葉に、殺生丸は目を見開いた。


―――りんが、死んだ?


『さっきから息をしていないし…だんだん体が冷たくなって―――』
『……りんを降ろせ』


琥珀は、りんを地面にそっと横たえる。は鏡にしがみつくようにりんの顔を見た。


確かに青白く、血の巡っていない顔をしている。殺生丸は癒しの天生牙を抜いた。だが、殺生丸は天生牙を抜くだけで、それを振り下ろさない。…あの世の使いが、見えないのだ。


『りん…』


琥珀が呼びかけても、答える様子はない。


『殺生丸さま…』


琥珀は縋るような視線を向けた。


『すみません殺生丸さま。俺がそばについていながら…』
『黙れ』


殺生丸はそう言って、琥珀の言葉を遮った。


にはわかる。あの黙れは、琥珀の言い訳を責めているのではない。…琥珀のせいではないとわかっているから。


は思った。殺生丸はいつからこんなに優しくなったのかと。


優しいとしたら、それはお前にだけだ


以前、殺生丸はそう言った。そしては、それを嬉しいと思った。心のどこかでそうであれと願っていたからだ。


「―――嘘」


そんなものは、殺生丸の嘘だ。


「本当は、みんなに優しいのに」




ドォン。


突然、鏡の中から音が響いた。それはどんどん殺生丸達に近づいていく。そして2人の前に黒い球体が現れ、ゴッ、と通り過ぎて言った。球体と一緒に、りんも連れ去られ、過ぎていく。


殺生丸と琥珀はりんを追いかけ、冥道の先へと歩を進めた。






「冥界の闇意踏み込んだか…」
「って。ええ!?確か入ったが最後、二度と出られないと…。殺生丸さまがいなくなったらわしはどうすれば――」


滝のような涙を流す邪見。それを聞いた殺生丸の母は、冥道石から顔をあげた。


「小妖怪」
「邪見でございます」
「私とて鬼ではない。愛しい息子が刀の修行ごときで命を落とすは無念。道を開いてやろうと思う」
「は?」


冥道石を中空にかざすと、淡く光りはじめる。殺生丸の母は、そこに向って呼びかけた。


「出ておいで、殺生丸。そのまままっすぐ進めば、冥界から出られる。だがこの道はすぐに閉ざされる。そうなればそなたは二度とこの世には戻れぬぞ」


二度と戻れない。


そう言った言葉も、今の彼には届かなかった。


「琥珀。お前はこの道を行け」
「え…?殺生丸さま…」


外界への出口をそれて、りんの匂いを辿る。


「俺も行きます!」


そう言って琥珀が走り出した瞬間、静かに出口が閉じた。


「あ、あのう~~殺生丸さまは…?」


そう、邪見が恐る恐る訪ねると、小さく舌打ちされる。


「知らぬ。あんなやつ戻ってこなければいい」
「え"え"!?」


ふて腐れた顔で、冥道石を首にかけ直した。


「母の親切を無視しおって。まったく可愛げがない」


そう言ってそっぽを向く。そんな様子をみて、邪見は再び泣き出した。


だが、泣きながら邪見は思った。殺生丸が大変な今このときに、は何故笑っているのかと。まるで何物も映していないかのような、生気のない笑み。普段なら、それこそ泣き叫ぶくらいに心配するはずなのに。


、お前…何かおかしくないか?」


思わずす問いかける。だがはううん、と言って首を横に振った。


「そ、そうか?」
「うん。なんにもおかしくなんかないよ」
「せ、殺生丸さまやりんが心配ではないのか」
「二人なら、大丈夫だよ」


始終、不気味な笑顔を浮かべている。


絶対におかしい。…が、殺生丸を信じているだけ、のようにも取れる。


邪見はじっと、をにらみつけた。






道を進んでいくうちに、ものすごい死臭が漂いはじめて、琥珀は思わず鼻を塞いだ。闇の奥に、巨大な影が見える。それは人の形をしていた。右手にはりんが握られている。


それはおそらく、冥界の主。目の前に死人の山が見えてきた。りんをそこに置こうとしているらしい。


『(りん!)』


冥界の主めがけて、殺生丸は走り出す。


『(そこへは行かせん!!)』


死人の山になど。
殺生丸は癒しの天生牙を抜いた。


『(連れて帰る!)』


りんを捕まえている腕を切り落とす。地に着く前に間一髪でりんを抱き止め、起きろ、と心で何度も呼びかけた。…だが、りんが目覚める様子はない。


鏡を通してそれを見ていたは、茫然としていた。


殺生丸の心がわかる。
りんを助けたい気持ち、刀の成長など忘れていること、そして…絶望。はゆっくりと目を瞑った。


"もしもあれが私だったら" そう考えそうになるのを必死で抑える。…すると。


『あれが私なら、同じように絶望してくれるかな?』
「っ!」
『そう考えたでしょう?』


何もない空間から聞こえて来たのは、紛れもない自分の声だった。


「なんでっ…」
『わかったかって?もちろん…貴方があたしだからに決まってるでしょ?』
「またそんな、わけのわからないことを…!」
『わけがわからない?冗談止めてよ。…私は、貴方が今まで必死で閉じ込めてきた心よ。心細い、悔しい、嫉妬、…貴方が醜いと言って、蓋をし続けてきた心』
「やめて!でたらめ言わないで!」


頭の中を渦巻く恐怖に、は思わず目を瞑り、その場に座りこんだ。


本当はわかっていた。自分の中に、とても醜い気持ちがあったこと。すべて自分の言うとおりだと。しかし、はそれを突きつけられるのが…現実を直視するのが…―――現実を直視するのが恐い。


「やだっ…こわい、こわっ…、やだ、 殺生―――――」


不意に、りんを腕に抱く殺生丸がよぎった。


…今、彼はのことなど考えていない。がどんなに苦しくても、殺生丸は心配もしないし、助けにも来ない。絶望もしない。


はゆっくりと鏡をのぞいた。その瞬間、殺生丸の腕から天生牙がすりぬけ、地に突き刺さる。


『りん…』 


小さく呼びかける声は、心なしか震えている。怒りからか、悔しさからか、それとも―――


『殺生丸は、天生牙よりもりんが大切。そして、あたし達よりも。…どう、悲しい?』
「…」


茫然と、鏡を見据える。死人の山が、天生牙に向って手を伸ばしている。殺生丸は緩く目を閉じると膝をついて…ゆっくりと、天生牙を抜いた。眩い光が天生牙からもれ、死人の山を浄化している。


…その瞬間、彼の目の前に大きな穴が…冥道がふたたび現れた。


『じゃあね、あたし。今度はあなたが、ずっとそこにいてね』
「っ、待っ…」


呼びとめるのも虚しく、すぐに声は聞こえなくなってしまう。はどうすればいいのかわからなかった。呼びとめたところでなにをすればいいのか、元に戻ったところで彼になんと言えばいいのか。


「―――いっそ、このまま」


そうが言った瞬間、空間がすべて真っ白く染まった。その中で、鏡だけが鮮明に、外界を写し出していた。



2007.03.26 monday From aki mikami.