破片
鏡を通してすべて見ていたは、突然のことに驚いた。今まで現世を移していたそれが、粉々に砕けたのだ。
咄嗟に顔を覆った着物をよけるとそこには鏡の欠片と、黒い闇だけが広がっていた。
「っ…!」
突然、怖くなった。このままここで一生一人で、死ぬまでいなければいけない。そんな気分になる。そして何よりもそうなったら…殺生丸と、二度とあえない。
「! 殺生丸!」
は手が切れるのも構わずに、鏡の欠片を拾い上げた。唯一、二つの世界をつなぐもの。
「殺生丸、殺生丸…!」
あてもなく、何度も叫ぶ。
助けて。
割れた破片を、茫然と眺めていた。今が"何を"したのか…殺生丸にはわからなかった。当然、ただ鏡を割っただけではないだろう。
「…殺生丸、何を驚いている?」
くす、と殺生丸の母が笑う。
「お前は"これ"を何度も目にしているはずだ」
「何…?」
何度も?言われて記憶を探る。
「っ―――!鏡の間…」
「ようやくわかったか」
鏡の間。そこは、弱きものは決して入ってはならない、禁断の場所とされていて、殺生丸の母がずっと管理していた。殺生丸も見たことがある。…二つの世界をつなぐ鏡。
「…っ」
殺生丸は、割れた欠片を一つ拾い上げる。掌に置かれたそれから、血が染み出てきた。殺生丸のものではない。それは、鏡の向こうの、の…
「殺生丸、貴方は勘違いしているわ」
そういったに、殺生丸は顔を上げた。
「…あたしは私。別人じゃないわ」
「何…?」
「人間は、愚かで浅ましい生き物…それは知ってるでしょう?みんな二つの顔をもっているの。表に見えているのとは別の顔…そう、裏の顔を」
「お前は、の裏の顔だと…そう言いたいのか」
「そうよ。…表のは出て来るのを拒んでいるのよ?貴方のせいで…」
「私の…せいで?」
「そう。…あたしたちが傷付くのは、いつだって貴方のせいなの。りんちゃんだって、それくらいわかるわよね?」
「…」
りんは黙りこんでしまった。は殺生丸が好きだと、わかっているから。
「……もし」
静かに、殺生丸が言った。
「もし私のせいで、が出て来ることを拒んでいると言うなら…」
その理由を知りたい。殺生丸は、手の中の欠片を軽く握る。そして、に脇目もくれずに歩き出す。その後ろ姿を、誰も追いかけることをしなかった。
鏡の間に辿り着いてすぐ、殺生丸は勢い良く扉をあけた。中は薄暗く、部屋の中央には鏡が飾ってある。殺生丸はその鏡に、そっと手をかざした。指先が、鏡の中に埋まっていく。それを確認して、鏡の中へ飛び込んだ。
真っ暗い空間で、視界がきかない。だが、殺生丸は迷わずに歩き出した。それは理屈ではない、がそこにいると、直感でそう思ったのだ。
「…!」
声を張り上げる。すると
「…殺生丸?」
暗闇が張れて、の姿が浮かび上がった。
「…」
は、割れた鏡の破片に手をついていた。
「せ、しょ…丸」
「何をしている」
「……ごめんなさい」
そう言っては立ちあがった。傷付いたてのひらから、血が滴り落ちる。
「…何を謝る?」
「……色々」
「それではわからぬ」
「わからなくてもいいの」
「良くない」
ぐっとの肩を掴んで、無理矢理にひき寄せる。
「っ、やめてよ!」
は腕の中でもがくが、殺生丸の力には敵わない。
「やめてよ、離してっ」
「離さぬ」
「その腕は、刀を振るうためのものなんでしょ!他のことなんて、どうでもいいんでしょ!」
「っ!」
「私、全部見てたんだから。この鏡が全部教えてくれた!…殺生丸はいつだって、私のことなんてどうでもっ…」
パシッ
歯切れのいい音が、その場に響いた。
「……っ、な、んで…」
「…、お前はそんな風に思っていたのか?」
「っ…」
「私を、…私を変えたのは、お前だ」
「っ!」
「お前が私を変えたんだ」
「う、そ」
「嘘ではない。お前がいなければ、私は…こうはなってない」
「そんなの嘘よ!だって私、何もしてない!なにも…最初に天生牙の癒しの力を使ったのはりんちゃんで、冥道残月破を教えたのは神楽、冥道を大きくしたのもりんちゃん…ほら、私は何もしてない。…何の役にも立ってない…」
何も。
もう一度繰り返すと、は殺生丸の胸に縋りついた。
「…もう、いい」
着物を握る手に、力をこめる。
「殺生丸が私を、好きじゃなかったとしても…私は殺生丸が好き」
「―――っ!?」
殺生丸は、目を見開いた。
「殺生丸が誰を好きでもいい。"私は"、殺生丸のことが好きなの」
迷いなく、まっすぐ殺生丸を見つめて。
「―――大好き」
その瞬間、当たりは真っ白な光に包まれる。二人は眩しさにかたく目を閉じた。
「…ごめんね、りんちゃん」
「…え?」
「私、嘘ついたの」
突然、もう一人のがそういった。
「…私は、の心の裏なんかじゃないの。りんちゃんの言う通り、偽物…」
「……こやつは、あの娘の心の"反対"だ」
「え?は、反対…?」
「あの娘の心とは正反対、対になるものだ」
「鏡は、すべてをうつすけど、それはすべて反対のもの。私は、鏡の住人だから…反対でなくてはいけない」
「それを話したと言うことは、…そろそろあの二人が出てくると言うことか?」
「はい。…だから、私は帰ります」
そう言うと、すっと姿が薄く消え掛かっていく。ふわりと微笑んで、りんの方に軽く頭を下げた。
すこしずつ、光が消えていく。そして気が付くと、二人は鏡の前に立っていた。
「…」
「私、出て来れたの?」
「あぁ」
「っ…よかった…!」
そう言って笑ったの表情には、少しの曇りもない。殺生丸が叩いた頬は、赤く腫れているのに。
「…お前は」
「え?」
「お前は、なぜ笑っていられる?」
するりと、の頬に触れる。何度も何度も、赤い痕を滑る。
「…もう、いいの」
「意味がわからぬ」
「殺生丸、私は貴方が好き。誰がなんと言おうが。…だから、いいんだ。もう誰かを恨むのはやめたの」
『その気持ちが、大切なの』
不意にそんな声が響いて、二人は反射的に振り返る。そこには、割れたはずの鏡が置かれている。
『闘牙王は知っていた。二人の心に迷いがあること。だからこう仕組んだの』
「闘牙王が…?」
『でもこれで大丈夫。きっと…だからね…迷わないでね、私』
「え…?」
どういうこと、と訪ねるが、鏡が答えることはなかった。
「…今の…どういうことかな」
「知らぬ。それより問題は…これが父上の差し金だと言うことだ」
「…いいんじゃないの?」
「何?」
「私は感謝してるよ。おかげでやっと伝えられたんだから。やっと迷いなく、殺生丸を思えるんだから」
そう言うと、は外へ続く扉へと手をかける。
「…何も、言わなくていいから」
振り返らずに、そう告げる。
「私の一方的な気持ちだって、わかってるから。だから、何も言わないで…忘れてくれてもいい。…でも」
たっと駆け出すと、は振り返り、笑う。
「大好き、殺生丸!」
2007.05.05 saturday From aki mikami.